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螺旋階段を降りてゆくこと

自分自身を中から許してゆくこと、苦しみから真に解放されてゆくことは
心の中の螺旋階段を降りてゆくことのようだと思う

それは、この世に生まれて来た本当の自分自身に近づいてゆくことでもある。

心をくるくると降りてゆくほどに、純粋でシンプルな、そのままの自分に出会ってゆく。螺旋はどこまでも続いている。終わりはなく、今見えてるいちばん遠くよりも向こうまで行けたら、もしかしたら、自分の内面に深々とした揺るがない美しさの水鏡を見出すのかも…と想像したりする。そしてその水鏡の向こう側にも螺旋は続いてるはずだ。

誰に出会うよりも、向こうの向こうまで降りて行けるその自分に出会ってみたいと思うのです。


こんなことを昨晩、ノートに書き留めてベッドに入ったら、ひさしぶりに夢を見た。
私の夢では、小中学の幼馴染がよく夢に出て来て息の合う良い関係でいるのは定番。実際には10年やそれ以上も会ってない友人たちだけど、夢の中では学生の頃と同じように一緒に過ごしている。

だけど、昨日の夢はちょっと違った。
今まで通り一緒にいて旅行してるのだけど、私は途中から、話が噛み合わないと感じるようになる。共通の体験である服に関する思い出話をしてて全く違うことを話してるような違和感を覚えたり、音楽の好みが全くすれ違っていたり。。。

目が覚めて、この夢についていろいろ考え巡らせていた。
腑に落ちたことは、自然な別れがやって来た、ということ。小中学の頃の私は、家庭内にとても辛いものを抱えて、それを必死に隠しながら学校の友人と仲良く過ごして来ていた。
だけど今、もうその頃の私からは、とうとう最後の細い糸が静かにぷすんと切れるように、自然にお別れをする時がきてる…

夢の解釈っていろいろあるけど、「夢に出てくる登場人物は、その人物に共鳴する部分を含んだ自分自身が持つ一面(=その登場人物で表現される事が適した自分自身の性格)で、その人物そのものではない。むしろ無意識にいる自分自身なんだ。」という考え方が、私にはしっくり来ている。


私の中に、話がしっくりこなくなったあの頃の自分がいることを知って、自然なさよならをしてゆく。そんなタイミングなんだろう、と思えた。
少し寂しい、だけど自分の成長を思うと、欠かせない体験だと信じられる。


精神分析の最後から2番目のセッションで、先生が「5年や10年、それ以上も精神分析を受け続けることは、何周でも自分の中をくるくると周り観察し続けてゆくみたいなことで
それは、堂々巡りして同じ場所を廻るのではなく、螺旋をくるくると降りてゆくように深まってゆく行為なんです」
ということを言っていて、ずっとその事が胸に残っている。ここに通えなくなっても、自分でできる範囲でくるくると降りていってみたいと思いながら、その日のセッションを終えた、

今でも週に一回、同じ曜日同じ時間の自己分析の時間は必ず確保している。
くるくると降りてゆく中で、内面の景色の変容を面白がって味わい続けられる自分でいたい。

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