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【系図】『我が名は秀秋』(その1)~豊臣家における養子について~

歴史小説から系図を書く

 今回も歴史小説を読んで系図を作成することについて書いてみようと思う。ちょっとのマニアックな楽しみ方ではあるのだけれども、歴史小説を読んでいる途中やあとで、登場人物の系図を書いてみるということをしている。歴史小説の場合、登場人物も多く、主従や親子で似たような名前の人物も多いので、系図にしておくと、その人物がどのような家系の人物なのかがわかり、文章に書かれていない人間関係もみえてくる場合がある。

注1)ここからの内容は一部、小説のネタバレも含まれているので、これから読もうと思っている方はご注意ください。
注2)また、系図は小説の内容やWikipediaの記述をベースとしているため、史実でない可能性もあります。なので、個人的な雑記としてお楽しみください。

小説『我が名は秀秋』から系図を書く

 今回は、矢野隆の『我が名は秀秋』を読んで、系図を書いてみた。

 主人公は小早川秀秋なのだが、どのような人物かは、Wikipediaの記述が簡潔だったので引用すると、

豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。(Wikipedia「小早川秀秋」の項より引用)

 とある。

 この小説の中では、豊臣家と毛利家をめぐる3人の養子が登場する。幼くして秀吉の養子となり、秀吉に実子・秀頼が生まれたことで毛利一族の小早川家に養子にだされた木下秀俊(のちの小早川秀秋)、秀吉の一人目の子・鶴松の死去にともない後継者となった秀次(のちの豊臣秀吉)、秀俊が小早川家の養子となったことで、小早川家の後継者から外されてしまう、小早川秀包。今回は、系図を通じて、豊臣家における養子政策について書いてみたいと思う。(毛利家については次回書く予定) 

豊臣家における羽柴秀俊について

  今回はまず、主人公の羽柴秀俊(小早川秀秋)とその周辺の人物、主な登場人物について書き出してみる。

木下秀俊(羽柴秀俊、のちの小早川秀秋)
・木下家定(秀吉正室おねの兄)の五男
・母は、雲照院(おねのおじ・杉原家次の娘)
・養父:豊臣秀吉→小早川隆景
・秀吉の義理の甥にあたる
豊臣秀次
・父は木下弥助(三好吉房)、母は日秀尼(豊臣秀吉の姉)
・養父:豊臣秀吉→宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉
・同母弟に小吉秀勝(お市の方三女・江の2番目の夫、豊臣完子の父)など
豊臣秀吉
・父:木下弥右衛門
・母:大政所
・妻:北政所(おね)、茶々(淀殿、織田信長妹お市の方の娘)他
・弟:豊臣秀長
・養子:豊臣秀次、羽柴於次丸秀勝(織田信長四男)、
    小吉秀勝(豊臣秀次同母弟)、羽柴秀俊 他
おね(北政所)
・杉原定利の娘、浅野長勝の養女
・豊臣秀吉の正室

 以上をもとに、豊臣家の人物、主に羽柴秀俊、豊臣秀吉、豊臣秀次の周辺についての系図を作成してみた。今回の系図の作成方法としては、本文に出てくる人物について、Wikipediaなどで、

・登場する人物がどんな出自の人物なのか、
・養子に出ている場合、実父母は誰なのか、

を調べ、関連する人物と合わせて書き出してみた。

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 上記の系図と併せて、作品を通じて、「養子」をキーワードに書いていこうと思う。

戦国時代における養子縁組の傾向

 養子と言うと一般的には、直接の親子関係のない兄弟や親類、時には他家より子を迎え、親子関係を結び、家名の存続をしていくことに用いられるが、日本の歴史、特に戦国時代においては、養子には、四つほどの傾向があったように思われる。

(A)主君や高貴な家柄から貰い受け、後継者とすることで、主君との結びつきを強めたり、家中での地位確立、自家の安泰などを目的にする
(B)家名存続のため、後継者候補として兄弟や親類縁者を養子にする
(C)親類縁者や家臣の子を自家の勢力拡大のために他家に送り込む
(D)同盟や服従の証、人質としての養子

これを秀吉の養子でみると、

(A)信長から貰い受けた四男・於次丸秀勝
(B)鶴松の死後、後継者として関白に就任した豊臣秀次や羽柴秀俊
(C)秀頼が生まれたのち、小早川家に養子として送られた秀俊(のちの小早川秀秋)
(D)かつては調略や和睦の証として人質のような形で、宮部継潤(※1)や三好康長のもとに送り込まれていた秀次。逆に小牧長久手の戦いの講和の証として、半ば人質のような形で徳川家康の次男秀康(のちに結城家へ)を受け入れている。

というように分類できる。

※1 秀次は、初め治兵衛と名乗っており、浅井攻めの際に、宮部継潤の元に養子(事実上の人質)として送り込まれ宮部吉継と名乗った。(その後、浅井氏滅亡と共にこの養子縁組は解消されたとされる)宮部継潤の元に人質として送り込まれた。(宮部吉継と名乗る、浅井氏滅亡と共に解消されたとされる)

豊臣家における養子政策の二度の転換点

 この作品の出来事と照らし合わせると、秀吉の養子政策には、二度にわたり大きな転換点があったように思われる。

i)天正10(1582)年 本能寺の変~小牧長久手の戦いの頃
ii )文禄2(1593)年 秀頼の誕生の頃

この辺りに転換点があったように思える。

ⅰ)本能寺の変前後

 1度目の転換点は、織田家の家臣だった秀吉が、本能寺の変後、天下人を目指し始める頃。それまでは、織田家でのし上がっていくために、信長の子(於次丸秀勝)を養子に迎え入れたり(秀勝を秀吉の後継者とすることで織田一族になろうとした?)、織田家の戦略のため、親類縁者(秀次)を人質として養子に差し出すなど、「織田家における羽柴秀吉」として養子を戦略に利用していた。
 それが、本能寺の変で信長が死んだのを境に、織田家から独立し、ひいては天下人目指す政略として、秀次に三好家を継がせたり(※2)、小牧長久手の和睦の証として、徳川家康の次男・秀康を養子に迎えるなどした。
 一方で、天下人を目指す羽柴家を確立していく過程で、それまで実子に恵まれなかった秀吉は、姉の子の秀次や、正室おねの兄の子であり、甥にあたる秀俊などといった親類縁者から後継者候補として(※3)、養子に迎え、自分の側近くに置くようになった。
 このように、政略の手段として、養子をとったり送り込むことで秀吉は着実に天下人への道を歩んでいた。しかし、これまで、たくみに政略を張り巡らせてきた秀吉も、唯一の誤算があった。晩年期に拾(のちの豊臣秀頼)生まれたことである。

 ※2 秀次が三好康長の養子となった時期は諸説あり、本能寺の変以前(天正3(1575)年頃という説や天正7~8(1579~80)年頃)という説もあり、その場合は、織田政権化における四国戦略の一環として養子に出されたとみる見方もある。(長曾我部元親の阿波三好氏への侵攻にともない、三好氏が秀吉に接近し、秀吉にとっても政権内のライバル・明智光秀が長曾我部元親への働きかけによる四国戦略への対抗措置ともみれる。)天正10(1582)年の本能寺の変の頃を境に、三好康長は出奔(もしくは出家、いずれにしろ歴史の表舞台から姿を消した)したが、秀次は、畿内において影響力をおくために名門三好氏を継いだという形になっていた。(その後に秀吉が柴田勝家を破り、事実上、織田家のトップになったあたりで、羽柴姓に復姓し、羽柴信吉と名乗る)この辺りから、秀吉は、羽柴家(のちの豊臣家)の羽柴家の一門衆中でも、秀吉の次の世代の最年長として、小牧・長久手、紀伊雑賀攻め、四国攻めなどで、重用するようになっていく。
 
※3 秀次は、天正13(1585)年、秀吉の関白就任の頃に偏諱を受け、「羽柴秀次」と名乗るようになり、その後も、九州攻め、小田原攻め、奥州攻めでも一門衆として、大将、副将など重要な役割を担っていく。
 羽柴秀俊は、天正10(1582)年に生まれ、同13(1585)年に、秀吉の養子となり、文禄元(1592)年には、従三位・権中納言兼左衛門督に叙任された。(秀俊が、明確に後継者候補だったかは定かではないが、木下家定の子のなかで、他の兄弟ではなく秀俊が養子になっていたことや他の兄弟と比べ高い官位に就いているのは何かしら秀吉の目にとまるものがあったのではないか)

ⅱ)秀頼誕生前後

 2度目の転換点は、秀頼の誕生の頃だったように思われる。天正19(1591)年、この年、秀吉は、豊臣政権ナンバー2の秀吉の弟・秀長の死、さらには最初の子である鶴松の死と相次いで親族を失った後、血縁の筆頭である秀次が家督相続の後継者として、養嗣子となり、同年の12月末には関白に就任し、豊臣家を継承した。
 しかし、文禄2(1593)年、秀頼の誕生により状況は一変する。文禄4(1595)年、それまで後継者と定められていた秀次は、謀反の疑いにより死罪を申しつけられてしまう。さらには、秀次の死罪に連座して、卷族(その子どもや側室)などのほとんども処刑された。(秀次の死に関しては、諸説あるが、いずれにしろ、秀次の死後、その一族のほとんどが処刑されたのは事実のようであり)これにより、豊臣家において、当時、秀吉の子ども世代で成人した親族がいなくなり、秀次の一族を根絶やしにしたことでその子の世代もほぼ殺し尽くしたことになり、豊臣家の親族をさらに少なくした。また、この頃、朝鮮出兵を通じて、秀次事件に連座して、処罰・転封を受けた大名も多く、豊臣家への反感を強めていったように思われる。
 また、この作品の主人公の羽柴秀俊も秀頼誕生が自身の運命を一変させる、それまでの後継者候補から勢力拡大の道具として、文禄3(1594)年、毛利家(結果として小早川家)へと養子に出され、さらには朝鮮出兵後には、越前北ノ庄へ大幅減封となった。これは、朝鮮での行動を咎められたとも、筑前の小早川領を蔵入地(直轄領)とするため(代官は石田三成と浅野長政)とも言われているが、いずれにしても、豊臣政権に不満を持つ要因になっていったのではないかと思われる。

以上のことを年表にまとめてみた。

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養子の悲劇~後継者争い、一族の衰退へ

 養子は一族の存続のために後継者として受け入れることは多くあったが、一度後継者として養子に入ったとしても、実子が生まれる、別の後継者が出来た時に後継者の座から降ろされたり、将来の争いの火種を取り除くために、抹殺されてしまうという悲劇は、長い歴史の中でも度々起こっている。
 このことは、豊臣家においても起きている。拾(秀頼)の誕生は、鶴松の死後、秀次を後継者として築き上げてきていた秀吉後の豊臣家の体制を一気に覆すことになってしまう。こうして秀頼誕生後、秀頼のみを後継者にすると方針転換していくことにより、豊臣政権は、秀吉の死後、急激に衰退への道を歩んでいくことになった。

小早川秀秋の新たな人物像 

 これまでの歴史小説やドラマでは、関ヶ原の戦いで、東軍か西軍どちらにつくか迷った「優柔不断」な人物で、徳川家康の陣から放たれた鉄砲による催促によってそれまで属していた西軍から東軍に寝返った「裏切り者」として、描かれることが多かった。けれど、この作品では、幼い頃に羽柴秀吉の養子として「天下人の子」となった主人公・羽柴秀俊が、小早川家に養子に出され、3人目の父・小早川隆景と出会い、同じように養子として兄同然に育った秀次の死、海を渡り朝鮮での初陣、自分は何者なのか、時代の波に翻弄されながらも、関ヶ原の戦いでのあの決断へと至る、これまでの小早川秀秋像を覆すような人物として描かれていた。どの辺りがそうなのかは、ぜひ、作品を読んでいただけるといいかもしれない。今までとは違った小早川秀秋を味わいたい方は、ぜひお勧めです。(あまり書いてしまうと面白くないのでこのくらいで・・・)

※今回も系図をダウンロードできるようにしてみました。興味のある方はどうぞ。

 つたない文章を最後までお読み頂き有難うございました。間違っている部分もあるかもしれませんが、興味をお持ち頂いた部分は各自でお調べ頂くことをお勧めします。

 次回は、秀俊が養子に行った先の小早川家、さらには毛利一族の系図について書く予定です。

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