歌舞伎の日

出雲阿国が江戸城で「かぶき踊り」を披露した日とされる。これが後の歌舞伎になったという。

出雲阿国という女性が、男性だけで行う演芸の起源になった。
1603年に出雲神社の巫女が募金を目的に念仏踊りの流れを汲む公演を披露した。官能的でエロティックなダンスに幕府に衝撃を与えたが、彼は1607年から1620年の間に、多くの遊女に真似をされたのである。

Une femme serait à l'origine de cet art aujourd'hui uniquement réservé à la gent masculine. En 1603, une prêtresse shinto dénommée Izumo no Okuni donnait des représentations religieuses de danse nenbutsu odori, dans le but de collecter des fonds pour le sanctuaire d’Izumo. Elle se travestissait pour jouer les rôles masculins dont certains étaient mis en scène dans les quartiers des plaisirs, proposait des danses à caractère sensuel et érotique. Même si ses représentations choquèrent le shogunat, elle fit des émules et entre 1607 et 1620, de nombreuses troupes de femmes souvent issues du milieu de la prostitution reprirent le flambeau et interprétèrent à leur tour des pièces tout aussi provocatrices.
●prostitution ... 売春の
●troupe ... 集団

1629年徳川幕府は、売春におけるさまざまな騒動を回避するために、かぶき踊りを真似する集団の公演を禁止にした。
通常の説明では、禁止が契機になり女性の代わりに女形(おんながた)が登場すると続くのであるが、日本のwikiではこれに否定的な見解である。

ともかくも禁令により、一度は下火になったが、18世紀から19世紀にかけての文芸運動(元禄文化)のときピークに達する。江戸時代の大衆文化の中心的存在になっていき、版画になったり、文学になったりして現れる。俳優の一団が組織され、社会的な役割を果たす(一座)ものとして家社会を形成するのも江戸時代である。それでも幕府や政府による取締は明治時代まで続いていた。歌舞伎を能や文楽のようにリスペクトできる形に改革していったのである。

Le Kabuki connaît son apogée aux XVIIIe et XIXe siècles, où il exprime l'esprit hédoniste du peuple japonais. Il est au cœur de la culture populaire de l'époque d'Edo (1603-1868), représenté en littérature comme dans les estampes. C'est à cette période que les troupes d'acteurs se structurent, gagnent en visibilité sociale et s’organisent en familles qui perpétuent des styles et un répertoire jusqu’à nos jours. Les tentatives de réformes et de censures perdurèrent jusqu’à l’ère Meiji (1868-1912) pour tenter de policer le Kabuki et le rendre plus "respectable", comme le Nô ou le Bunraku.

歌舞伎自体に触れたわけではないが、(参考note → go ) 助六寿司の由来について少し触れた。
人気の演目 助六由縁江戸桜である。
仲之町三浦屋、意休はいつものように偉そうに揚巻の元にやってくるところから物語は始まる。
揚巻は助六にほの字なので、意休に愛想尽かしの言葉を投げる。まずは揚巻が登場というところで、花道は見どころになる。美貌の権威でなくてはいけない。何しろ江戸一番の花魁なのである。そして意休に対しての啖呵となり、ここでは美の上に貫禄も兼ね備えなくてはならない。

意休さんでもない、くどいこと言わしゃんす。お前の目を忍んで、助六さんと逢うからは、仲の町の真中で悪態口はまだなこと、叩かれようが踏まれようが、手にかけて殺されようが、それが怖うて間夫狂いがなるものかいな。慮外ながら揚巻でござんす。男を立てる助六が深間、鬼の女房にゃ鬼神がなると、さァ、これから悪態の初音。モシ意休さん、お前と助六さんを、こう並べて見る時は、こっちは立派な男振り、そっちは意地の悪そうな顔つき、譬えて言わば雪と墨、硯の海も、鳴門の海も海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫、さア、間夫がいなければ女郎は闇、暗がりで見ても、お前と助六さん、間違えてなるものかいなァ。たとえ茶屋舟宿の意見でも、親方さんの詫言でも、小刀針で止めぬ揚巻が間夫狂い。さァ切らしゃんせ、たとえ殺されても助六さんのことは思い切れぬ。意休さん、わしにこう言われたらよもや助けてはおかんすまいがなァ。さァ切らんせ。

ここから助六が出てくる(出にくくないか?笑)
江戸一番の花魁の男を演じるには、やはり侠気(おとこぎ)と器量を兼ね備えなくてなくてはならない。江戸と桜と助六の三位一体、花川戸助六は、市川海老蔵のキャラクターが映える、そしてそれを包み込むような玉三郎の花の芸。

しかし、歌舞伎の中に出てくる女性は男性に積極的なふるまいをするのが多いが、江戸期の女性がそうなのか、はたまたそういう女性の心情を形にした踊りのルーツがそうなのか。。。

源平の話が歌舞伎に出てくるのかといえば、能や文楽に迫りたかったからなのか、義経千本桜三段目に「すし屋」という演目がある。平維盛の出てくる話である。
寿司は馴れ寿司、おそらく鮎などを発酵させたものなのであろう。すし屋の娘のお里は、店の奉公人弥助と祝言をあげることになった。弥助は男前なので、お里はたいそう喜んで初夜を迎える日に”お月さんも寝やしゃんした”したとたいそう可愛げに弥助に迫るのである。
この演目は、楽しいのはここまでで、実は弥助は匿っている平維盛。これを梶原が探しているという。お里の兄でありならず者の”いがみの権太”が大変身して、維盛を守るのであるが、権太は殺される悲劇である。

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歌舞伎の上演の情報は、雑誌「ぴあ」の監修した、東京案内にあった。
”ポップな歌舞伎”というタイトルで、東京では歌舞伎が見れるという文化の幅広さにただ憧れたのである。
東京にきても、歌舞伎を観る機会にいまだ恵まれていないが、不勉強というものであろう。

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<来年の宿題>
・歌舞伎の演目
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