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海苔の日

全国海苔貝類漁業協同組合連合会が、大宝律令が制定された旧暦・大宝元年1月1日を新暦に換算した2月6日に記念日を制定。海苔の生産は2月がピークらしい。

 浅草海苔ときく。
でも、浅草って海はないよな。素朴な疑問である。かつては海沿いなんだろうか。そうだったとして浅草にほかに海産物ないよな。。。疑問を説明するのに、たしかに入海だった時期がある。浅草は古代から品川、新橋とならぶ湊(みなと)があった。埋め立てられて今があるとのことである。ということで海苔はとれて、おそらく浅草のことだから紙漉きの職人もいて、海苔の加工技術が発展したのだろうと推測する(事実、そのように紹介しているHPもある)が。。。
今のように海苔が紙状になって加工されたのはいつ頃なのかといえば、室町時代の頃にはすでに紙状だという。もっと遡り、そもそも海苔っていつ頃日本で食べられたのかという疑問に答えるほどの文献はないそうだ。

柿本人麿は、石見の国(島根県)の役人であった。石見の湊から中国に何度も行き来した。海苔が歌われた最古の歌を歌ったのも人麿である。

向津(むこうづ)の奥の入江のさき浪に、のりかく海女の袖は濡れつつ

この歌が人丸峠の傍らに建立された人丸神社に建てられた石碑にかつてはあったという。飯尾宗祇は、

むかう津ののりかく海士の袖に又、思はず流す我が旅衣

と詠んで人丸神社に奉納したという。

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 古くから海苔を食べていたし、室町時代には、板紙状でもつくられていた。浅草海苔に戻ろう。
 文献をたどると、浅草はたしかに海苔は採れたらしいのだ。だが、浅草で採れた海苔は生のりで売られ、この形状ではない。江戸の大改造で河口は前進し、浅草は海から遠くなった。海苔の供給源は葛西浦あたりが最初であったという。浅草観音近くには多くの商店が立ち並んだ。この様子を記すのが、「江戸鹿子」である。でもその中に浅草のりを販売する店は見当たらない。この本をそっくり真似た「日本国華万葉記」にはかろうじて海苔を売っている店が紹介されるのであるが、これとても生のりであるかもしれない。のちに品川で海苔の養殖が始まる。遅まきながら、「江戸砂子」にこう出てくる。”品川苔を浅草で製す”。続く、1732年に「続・江戸砂子」が出て

浅草海苔  雷門辺りでこれを製す
品川生海苔 品川大森の海辺にて取る。浅草にて製する所の海苔は此処の海苔なり

と出てくる。1732年といえば江戸も中期になってから。それまではおそらくは少なくとも名物になってはいなかったようだ。
正木屋が浅草海苔を売った初代であるが、この頃はまだ葛西でとれた海苔。
1638年の頃である。おそらく海苔はまだ人気がなかったと思われる。次の店の永楽屋になって、商売が大きくなった。おそらくこの頃に、江戸の食文化が大きく変わったのであろう。
やがて、

雷神門の外、花川戸町の入り口角に、六地蔵の石灯籠あり、ゆえに土人、ここの河岸(隅田川)をさして、「六地蔵河岸」といへり。この地は、往古より奥州街道の馬次(宿場)なりしとそ。その頃は、観音の門前、旅籠町にして、この六地蔵あたりは、馬駕籠の立て場にありしといふ。
 此処に今も毎年12月18日の歳の市には、此辺の浅草のりを賈う家々にて近在より参詣する旅人をしえ止宿しむるとそ伝へ云ふ

といわれる。

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”江戸前”というのもよくわからない。(”山手”同様わけのわからない言葉である)江戸の前の海で採れたものを食すという意味であるなら、その海は葛西か品川か、はたまた千葉か横浜か・・・
その品をみると、うなぎ、天ぷら、そば、そして、寿司である。江戸の後半には、海苔巻が登場し、海苔は一気に庶民まで需要を伸ばした。もはや生産量は浅草のりだけでは、供給が追いつかない。品川や大森で取れる海苔を使うなら、わざわざ浅草まで運ぶに及ばず、採れたところで加工するがいい。
こうして、大森のりが台頭し、浅草のりは斜陽になるのである。
山本山は最初は茶を扱っていたがのちに海苔を扱う。でもそれはもはや江戸前ではなく有明の海苔に感銘を受けてそちらを販売するようである。

さて、品川、大森あたりに、海苔の養殖の景色が広がる。

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この棒のことをヒビという。広重の「名所江戸百景」には、鮫洲のヒビの様子が描かれている。

色をかへ品川のりや春の海     兼豊
行く水や何にとどまる海苔の味   其角

などの俳句に詠まれている。
春の海とあるのは、新春のこの時期(ただし旧暦のことだ)を指す。
また江戸庶民の間でも いまこうしてくってる海苔はいつからどこで・・・みたいな話題はつきなかったのだろう。

のりの庭とは浅草でいいはじめ

なんて、歌が詠まれる。これは仏法の法(のり)とかけた地口で浅草のりの誕生を詠った。さらに紙漉き技術とかけたものが

竜宮は浅草のりの落し紙

海がしだいに遠くなり、それでも浅草で売られ続けた、さらに供給場所が大森・品川であったのも江戸庶民は当然知っていた

海遠うして浅草でのりをうり
大森が海苔のなる木を植えておき

なんてのもある。

江戸の味を支えた海苔であって、恵方巻のなんたるかは知らぬが、やはり文化は心して食うべしと思うのである。

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<来年の宿題>
・江戸の食文化(蜀山人を読む)
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