見出し画像

ふとんの日

全日本寝装具協会が1997年に制定。日付は「ふ(2)と(10)ん」と読む語呂合わせから。ちなみに10月10日も「ふとんの日」だ。本noteではまぐろの日で書いた。

「ふとん」というと田山花袋を思い出す。
THE私小説といった具合の、中年男性が若い女性に抱く感情を赤裸々に綴った同名の小説。人間が隠しておきたい暗部を吐露した作品として、後世に影響を残した。あまりにもインパクトが強く、花袋といえば「蒲団」といった具合だが、「東京の30年」という作品があり、明治期の東京の様子を明晰な文章で綴った。花袋は「蒲団」以前は紀行作家で、いろんな場所を旅し見聞を漢詩に裏打ちされた教養で綴った。いくつかの小説作品を書いたり、レ・ミゼラブルの翻訳をするなどの作家活動をするものの尾崎紅葉に連載枠を横取りされたり、別枠の「落下村」も火事の話題で吹き飛ばれると不運が続いた。

「火事の記事に興味が移って、もう誰も見てくれないからね」とかう私は友人に愚痴をこぼした(「東京の30年」)

とある。この時期は短歌を詠んだり、フランス・ドイツ文学を訳したりと、道をいろいろと探る時期でもあったのかもしれない。

Au début de sa carrière, ses écrits sont très romantiques, mais avec l'essai « Rokotsu byōsha naru » paru en 1904, il commence à se rapprocher du naturalisme français qu’il découvre chez Guy de Maupassant et les frères Goncourt.

その文芸活動は、たくさんの文人との交流の場でもあった。紅葉会に属していた花袋は、精力的に友好を結んだ。なんといっても国木田独歩だが、柳田国男もその1人である。また、上田敏の「鴎外はひどいよ、誤訳ばっかしてるんだから」という物言いに驚いたとか「東京の30年」に記されている。紅葉会からは離れる花袋だが、独歩とは終生の友となる。

自分の考では、この露骨なる描写、大胆なる描写ー即ち技工論者がみて祖本なり、支離滅裂なりとするところのものは、却って我が文壇の進歩でもあり、また生命でもあるので、これを悪いといふ批評家は余程時代おくれではあるまいかと自分は思ふ

淡々と明晰に綴るというスタイルがだんだんと決まってくるのである。
紅葉の死後、国木田は「独歩集」、藤村は「破戒」をそれぞれ書いてクリーンヒットを飛ばしている。花袋も取り残された感覚を覚えつつ、今度は俺の番だと鼻息を荒くしながら「蒲団」を出したのは1907年のことである。
これがセンセーショナルであった。私小説の幕開けとなるのである。

Il commence à développer un genre majeur dans la littérature japonaise, le watakushi Shosetsu, ou «roman autobiographique. « Futon », publié en 1907, le rend célèbre dans les cercles littéraires japonais. Ce roman décrit sans tabous l'attraction qu'un écrivain d'âge moyen (l'auteur) a pour une jeune étudiante.

”露骨な描写”への批判があったことについて、花袋自身は「小説と作法」の中で、次のように記している。

作者の懺悔録とみなした人が多かった。作者にもああいふ境遇に邂逅したことがあって、ああいふ心理状態に居る事があったとしても、作者はあれを良い事とも悪い事とも思って居ない。要するに現象である。

ここで注目したいテーゼがある。この小説が物議を醸し出す前の売れない時代や、紅葉や硯友社に対する辛辣なものの言い方。そして、アドラーの次の文句と対比してみる。

人は正しいことをして注目されないと、ときに「負の注目」を集めようとする人生をみじめにするような努力はやめるべきだ。

たしかに現象として花袋は「負の注目」を集めることで、有名になった。だが、これが、”みじめにするような努力”だったのだろうか・・・

たしかに、アドラーのような側面でとらえることもできるのかもしれないが、花袋は自分の才能を最後まで信じて、文壇の中でさまざまな活動をした挙げ句にたどり着いたスタイルを見出し確立したのであり、決してみじめでもないような気がするのだ。

Sa trilogie de romans autobiographiques : « Sei » en 1908, « Tsuma » en 1909 et « En » en 1910 marque le début du naturalisme japonais.

「生」では、花袋自身が”殊に死んだ母親に対する忌憚なき解剖が中でも一番自分を苦しめた”と語る。自分の家族を綴った描写で、モーパッサンの小説「皮剥の苦痛」にもなぞらえている。自らの人生を見返し曝け出すことで素直に自己の位置なりを確認した作業ともいえるが、たしかにきつい作業になったのかもしれない。苦しんでえぐり出した自己をただただ描写したのではなかったかと思うのである。だからこそ、東京30年を綴ったのだととらえることもできる。

才能の開花を諦めず、文芸に近いところに身を置き、ついには自分のスタイルをいろんな試行錯誤の上確立した花袋。彼のいろんな作品を歩哨してみようと思う。

------------------------------------------------
<来年の宿題>
・東京の30年
・荷風と花袋
------------------------------------------------


この記事が参加している募集

習慣にしていること

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?