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我がインコたちよ、世に翔け


最近、子どもの写真をSNSにアップする際、スタンプなどで顔を隠して投稿する様子が見られる。たとえ赤ちゃんであってもちゃんと目元が隠されていて、賢明な配慮である。
今はどんな手を使って個人情報を知られるかわからないし、そもそも子供の肖像権を考えたら
大事な加工だと思う。


では、インコに肖像権はあるのだろうか。


わたしは自分のインスタグラムに、実家で飼っている4羽のセキセイインコの写真を載せまくっている。
映えてる写真から、お茶目な写真、衝撃的な写真まで、いわばインコのプライベートを赤裸々に世に発信しているのだ。わたしが一番見せたいのはその可愛いお顔。だから顔を隠すなんてことはもちろんしないし、目線を入れることもない。
むろん、インコたちに許可は取ってないので、彼らは自分たちがわたしの多くの友人たちに見られていることを知るよしもない。

これ、人間の子どもだったらえらい問題である。人権を完全に無視しているので、子どもにとっては憤慨案件である。でも、インコなら許される。インコだから許される。ここには、人間とインコの間の決定的な認識の違いが隠されている。


ペット用のインコは愛玩動物といわれる。わたしはインコとの間に信頼関係を築いているので、愛玩という言葉に彼らを納めたくない。でも、所詮彼らはペット、人間に飼われているのに違いはない。野生で生きる権利を最初から剥奪された鳥なのだ。
敵にさらされる危険はないし、生存をかけて餌を探す必要もない、温室育ちのぼんぼんとお嬢。そのおかげで彼らは野鳥の1/10くらいの時間しか連続で飛ぶことができない。4羽のうちの1羽は太ってしまっている。バードウォッチングが趣味の人は、飼い鳥は野鳥の美しさには敵わない、と断言する。そんなことを言われたら、わたしがやっていることはあの子たちにとって罪な気がして、ちょっと落ち込んでしまう。


さて、我が家のインコは好きなものには飛びつくし、嫌いなものからは全力で逃げる。そして、人懐っこい。鳥の習性で仲間と同じ行動をとるので、私たち人間がご飯を食べると鳥もご飯を食べ始める。静かにしていると静か。テレビがついていると騒がしい。名前を呼ぶと大きな声で返事する。羽繕いの要領で人間の肌をカリカリかじってくれる。4羽それぞれにも性格があり、4羽の間でも関係性が築かれている。彼らの行動を見ていると何を考えているか丸わかりである。
でも、1日の大半はカゴの中に閉じ込められている。交尾しそうになったら人間の手で止められる。こう言った部分では、鳥の自由、生きる上での権利が奪われていることがわかる。でもその部分を野放しにしたら、ある瞬間に窓から逃げてしまい、交通事故にあって死んでしまうかもしれないし、次々に子どもを産ませたら育てられなくなってまた死なせてしまうかもしれない。飼い主の責任として、彼らの人権、ないし鳥権を奪い取らなければならないのである。彼らを思うが故、制限せねばならないという矛盾。鳥権を守りながらペットとして鳥を飼う、ということ自体が破綻した論理なのだ。それなら、結局のところペットとして飼わないというのが、一番鳥のことを思った選択になってしまう。

その鳥権のひとつとしての、インコの肖像権。これは、インコの顔を世に公開しても人間側には害はないし、インコにも害はないので、考える必要は結局のところあまりない。でも、インコをインスタグラムに乗せて、みんなに見てもらいたいという人間の、つまりわたしの煩悩による鳥権の剥奪なので、なんというか、申し訳ない。でも、あの可愛さをわたしとわたしの家族だけで独り占めするのはもったいない。だから載せる。完全に人間の自己満足。


家にインコがいるのといないのとでは、今ではもはやまるで違う。彼らから学ぶことも多いし、彼らがいることで心の平安が保てたり、幸福感を得られたりしていて、今では生活に、言い換えれば人生に欠かせない存在となっている。ありがたいことにインコがわたしの家族を繋いでくれてもいる。心の拠り所として、大いに救われている。飼いならされているのは、むしろわたしの方なのかもしれない。…っていうのはやっぱり傲慢だな。

ペットとして飼う選択をした以上、自然の中では得られない幸福をいっぱい与えてあげることにしよう。大丈夫、君たちを決して不幸にさせたりはしない。ごめんよ、我が鳥たち。愛してる。


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