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嘘と真実の狭間で

テルは斗真の嘘を見破る能力を持っていた。能力というよりは、斗真という人間のみに発揮される鋭い観察眼というべきかもしれない。
例えば、常に乾いていて薄いのに人より赤い唇から吐き出される呼気からアルコールの香りが一切しないのに、声のトーンが普段よりほんのすこし明るく上ずっているように感じられる時。
テル以外の、他の人から見ればなんの変わりもないように見える些細な変化だった。
でも、テルにとって音は色彩だった。普段の斗真の声は、錆びた鉄の色が含まれるような渋い紺色にみえた。だが、嘘をついていると分かるときは、そこに深みのある橙色が一筋浮かび上がるのだ。
テルがその色に気づく時、彼女の心は鉛のごとく重くなった。それは自己防衛の盾となり、真実を知るときの痛みを避けるため、変化への敏感な察知にわざと気づかないふりをした。


斗真は自分自身に対して常に二重の感覚を持っていた。真実の自分はいつもテルといるときで、他の女といるときの自分は深海のように濁った視界の悪い世界の住人だった。
彼にとって正誤はとてもはっきりとしていた。テルへの愛情こそが正しく清いものだった。でも、正義に取り憑かれることはいつしかひっくり返って悪魔になりうることを彼は痛いほど身にしみて実感したことのある人間だった。若い頃真実を求めて宗教の世界に浸り、ある時自分の行動そのものの矛盾に気づいて深い罪悪感に苛まれたことがあったのだ。その経験によって、彼は愛に限らずどんな事柄に対しても、何か不真面目で間違っていることを一点持っていなければどうにも気が済まなくなっていた。
だから他の女を感じることでテルへの愛情の輪郭をより際立たせ、一層真実の愛に近づいていく自分に酔いしれる必要があるのだった。

そんな2人は、側から見れば仲睦まじい夫婦である。


全てをさらけ出すことは、人間が人間らしさを放棄することと同義だ。我々はプライバシーを守ることを許されているのだから、どんな考えのもとにせよ、心が健康な状態であるのが一番で、そのために嘘をつくのは時に必要なことなのかもしれない。
でも、それが自己中心的な考えによるものならば、悪の掃き溜めが他人の心に蓄積する。この2人の間でいえば、斗真の心の健康のために、テルの心が犠牲となっている。それが真実の愛といえるだろうか?


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#ミランクンデラ敬意を込めて

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