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夜が怖い

(映画ミッドサマーについて:若干ネタバレ有)



トラウマを植え付けられる映画だと事前情報でわかっていたはずなのに、つい好奇心に負けて観に行ってしまったミッドサマー。


結論から言うとかなり最高だった。


私はこの映画を観ている間、結構主人公のダニーに入りこんでいた。

早くこの村から逃げ出したい、けれど逃げ出せない絶望と救いのない孤独感が映画館に一人閉じ込められた私の状況と重なる。
村の人たちが次に何をしでかすかわからず、終始恐ろしさに心臓が早鐘を打っていたけど、夢幻的な映像と実はどこまでも純粋な村の人々につい見入ってしまい、次第に自分の常識が本当に正しかったのか分からなくなってくる。
中盤を過ぎた頃にダニーが特別なティーを飲まされてから、巧みなカメラワークも相まっていつの間にか私もトランス状態に陥っていた。心地よく酔っている私は彼女と感情を共有し、熱に浮かされたような喜びと苦しみを一息に味わい、重要な最後の儀式まで一気に駆け上がり、ふわっと降りたった最終地点にはダニーの微笑みがあるというカタルシスに満たされたところで幕が降りた。
映画館の自動ドアをくぐると目の覚めるような青い空に頭がクラクラし、未だトリップの余韻に浸っているみたいだったのでしばらく呼吸を整えねばならなかった。

以上のような映画体験であった。



ホルガ村の人々に悪意はなく、全ての出来事は信仰とそれに基づく善意によるものだった。けれど一つにまとまろうとする共同体のあり方は、そこにうまく適合できない者を排他することに繋がる。それも、本人たちの自覚無しに。
とくに顕著なのは新興宗教団体だと思うが、実はどんな団体にも含有される性質なのかもしれない。民族でも、学校でも、会社でも、地域でも、国でも。
映画内で生贄に選ばれた外部の人間たちは、別にホルガ村の人々に敵意を抱いていたわけでも、悪さをしようと企んでいたわけでもなかった。ただその異様に見える文化に適合できなかったり、愚かな行為によって共同体の規範からはみ出してしまっただけなのだ。
このような現象はどこにだって見られる。
いじめの標的も、噂される者も、差別の対象も、彼らはいつだってマジョリティーの犠牲者だった。特に空気を読む文化が主流の日本では、尚更よく見られる光景なのかもしれない。
でも実はマジョリティー側がサイコパスだったり、悪人の集団だったりすることは滅多にない。犠牲者が生まれるのはむしろ、彼らが信じる正義や、まともとされる共通認識による。
だから彼らが絶対的な悪とは言い切れない。実際に主人公も、最終的には共同体に救われる形で終わる。むしろ彼女にとっては、今まで付き合っていた彼氏やその友人たちよりも、ホルガ村の方が居心地がいいのかもしれない。そして終始彼女に感情移入していた私も同様に、映画を見始めたときに感じていた嫌悪感が払拭され、映画館を出る頃にはホルガ村に親しみさえ感じていたのだった。


映像作品としても完成度が高く、あの世界観に浸る体験ができたのはとても良かったと思った。
でも衝撃的な映像が多く、そういうものに耐性がなかった私はやっぱりトラウマを植え付けられたみたいで、ここ二日間、電気をつけっぱなしじゃないと寝れていない。





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