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8度目の3月11日を迎える

3月11日を迎えるたびに、生のまま化石化したあの日の思い出がありありと蘇る。また季節が巡り、あれから何年という節目を迎えたことを噛みしめる。14:46を、今日も迎える。

昨年の今日は、父と大洗磯前神社の境内から茨城の海を眺めながら、町内放送の案内に従って黙祷を捧げた。
一昨年の今日は、オーケストラに乗っており、福島県相馬市でのチャリティコンサートの舞台上で黙祷を捧げた。
今年は千葉県松戸市で、大学の仲間と進めているプロジェクトの話し合いのなか時間を過ごした。黙祷はしなかったけど、やはりあの時間になると無意識のうちに時計を睨んでいた。

こうして毎年記憶が刻まれていく。震災がなければあり得たかもしれない今日の代わりに、震災が起きてしまった世界の今日を迎える。
1年、また1年と時が過ぎ、私自身も歳を重ね、あの日の意味が熟成されていく。益々色濃く。

あの日と同じ季節、同じ時間軸の追体験を繰り返す。今年でもう8度目になる。そしていつも思うのは、日が暮れていく恐怖。何もわからない混乱の渦の中で、闇に飲まれていく恐怖。
この季節じゃ、まだ夜は寒い。あの日、皆どんな思いをして過ごしていたのだろうか、と。

きっと死ぬまで3月11日の追体験は続いていく。私はあの地震を、約束されているかに思われた平和が音を立てて崩れ落ちる瞬間を、身をもって経験しているから。

生き残った者に何ができるのか、何を考えなければならないのか、その答えを簡単に見いだすことはできないけれど、きっとその答えのないもどかしさを抱えて生きることが、私にできる唯一のことなのだろう。
追悼の意を込めて。

#エッセイ
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#震災
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