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幻の卒業式と過ぎ去ったあの日



幻の卒業式は、どこに行ってしまうのだろう。
共に学生時代を過ごした友人たちの顔を見る最後の機会だったかもしれないのに。

小、中学校の卒業式は、当日を迎えるまでに何度も何度も予行練習が繰り返され、いざ本番となっても私には、今日が重要な日だという実感があまり湧かなかった。すべての儀式が終わって体育館を退場した後、正面玄関の前では多くの生徒たちが写真を撮りあったり泣いて抱きあったりしていたが、私は結構あっけない気分ですっかり馴染みの顔を眺め、特に仲が良かった子たちとだけ写真を撮って呑気な気持ちで校門を出た。何しろ毎日顔を合わせていた人たちだから、もう会えないかもしれない人がいるなんて信じられなかった。それよりも、時間と校則に縛られて息苦しかった学校にもう通わなくてもいいんだという解放感の方が勝り、一刻も早く家に帰ってこの自由な時間を楽しもうとさえ思っていた。

でもこの年になって、学生でいる時間を、そんな風に軽率にしか考えなかったことを後悔している。
実際学校を卒業してしまえば、余程仲が良かったか、進路が一緒かなど、何らかの理由がないかぎり旧友と再会する機会はほとんどなかった。時間は少しずつ削れるように、でも過ぎてみれば塊ごとごっそり、消え去ったような感覚すらある。
地元に帰ると、ひょんなことで旧友の現在の話を耳にしたり、たまたま訪れたカフェで偶然知り合いと隣り合わせたりすることがある。そうして見覚えのある顔を見つけて思わず声をかけた後はお互いどこか遠慮がちで、だけど久しぶりに会えた嬉しさをほんのり顔に滲ませてちょっとだけ会話をする。そんな儚い交流が、今の私には染みるのだ。


連日の感染症騒ぎによって子供たちのそんな大事な一瞬が奪われてしまったのだと思うと心が痛む。学校へ行きたくないけど仕方なく通っていた側の私からすれば、一斉休校ときいて最初に思ったのは学校を合法的に休めることへの羨ましさだった。だけど、やはり人生の節目として大切に迎えるべき日がこんなにも唐突に奪われることは悲しいことだと思い直した。
あの頃の、まだまっすぐ正義を信じることができた時代の友人ってやっぱり貴重なんじゃないか。だって、大人になったら人ってかなり変わってしまうから。
一番大きな変化は、素直でいられなくなることだと思う。愛想笑いを覚え、ウィットにとんだ会話を覚え、痛みを回避する方法を覚え、ごまかしを覚え、人をそう簡単に信じなくなる。そうして感情豊かな本当の素顔は、分厚い防御の鎧の下に覆い隠してしまう。
だけど、幼い時代を共に過ごした友人たちは、自分たちの剥き出しの本性を間近で見せ合いながら育った人たちなのだ。共に工夫を凝らして遊び、嫉妬し、些細なことでぶつかり合い、心から励まし合ったあの頃。成長は喜ばしいことでもあるけど、それに伴って失うものも多くある。だからこそ学生時代の友は貴重な存在で、できることなら多くの人とその縁を切らぬ方が良かったと、後悔する日が私には来てしまった。

私にはまだ機会があった。ちゃんとお別れしあい、友情を確認しあう卒業式という日がちゃんと用意されていた。だけど、一斉休校を要請されて今自宅待機している多くの子供たちは、もうそのような機会が巡ってこないのである。努力では手に入らない、人生の一つの節目であったのに。

感染症は致し方ないことであるけど、あまりに無計画な政府のやり方を見ていると、そのしわ寄せを負っている今の若者たちには本当に無念の思いが募る。
この国の決定権を持つ方々が今回の件に関してどのような考えを持ち、市民という言葉で片付けられる一人一人の人間に対してどのような思いを感じているのか全く明かされないし、態度でも全然示されないので知る由はない。
だけど、大勢の中の一市民である私はせめて、現場を生きねばならない当事者に思いを馳せられる人間でありたいと、そう望んでこの文章をしたためる。




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