情報の"お粥"しか受け付けない

 情報を自分なりに料理するって、とんでもなく難しい作業ではないだろうか。そこに、最近の情報との付き合い方だとか、なんなら若者の政治参入だとかも絡みそうだよねって話。
 ただの個人の考えですので、適当に読んでね。

まず情報が多すぎる。

 現代になって情報が手軽に、いつでも入手できるし、好きに発信することができるようになった。
 スマホを開けばいくらでも情報が手に入る。興味のある物事に絞ったって全部に目を通すのは無理なので、掻い摘む必要がある。その選んだ情報の中には、もちろん公式な情報も含まれるだろうし、それを元に誰かが発信した情報も含まれる。
 なにか物事を調べるときや、何気なく目にする情報は様々な段階の情報が混在していて、それが大量に存在するというのが、普通になっている。

情報を選ぶ

 手っ取り早く何かについて知りたいときは、誰かがまとめた情報を見るのが楽だったりする。まとめた情報っていうのは、ニュースサイトの情報もそうだし、まとめサイトみたいな物など多くの種類があると思う。
 誰でも情報を発信することができるから、起きている物事に対して興味を持っている人達や、ちょっと詳しい人達なんかが懇切丁寧に情報を読みやすく、わかりやすく、簡単にまとめて教えてくれる。
 情報が多すぎるんだから、僕たちはそういったまとめられた情報を選んだほうが効率的で、知ることができるように思える。

誰かが料理した情報

 そういったまとめられた情報は、すでに誰かの意識が内包された状態で発信されている。
 誰かが情報を集めて、その誰かの主観で読みやすいように取捨選択され、加工を施された情報が発信される。有名な人が取り上げた情報は、多くの人が目にするし、それしか選ばない人もいる。
 情報という素材を、発信者というシェフが料理して提供される。シェフの料理にはその個性が出るだろうし、それぞれのシェフにファンが付くのも当たり前で、そのシェフが作ったものしか食べない人も居るかもしれない。

たまには自分たちで料理するのもいいんじゃないか

 誰かが料理した情報は、読みやすいし簡潔だし効率的かもしれない。一方で、料理された情報にはリスクが存在することを忘れてはいけない。
 料理された情報は、楽だけれど作った人が雑味だと判断したら、一部は切り捨てられることもあるし、料理された情報には作った人の意見も混ぜられていることが多い。
 意見が混ざっている情報を日頃から少しずつ摂取することで、気付いたら自分の考え方がシェフの考え方に傾倒していた。なんてこともあるかもしれない。誰かの考え方に影響を受けることは自然だけれど、それを丸ごと自分の考え方として錯覚してしまうことは、私は微妙に良くない傾向な気がする。
 そんな染まり方を防いで、自分らしさを確立させるためにも、情報を自分で料理することもいいと思う。誰かが料理した情報を集めて吟味して、自分なりの解釈をした上でもう一度考えるという力が大事な気がしてならない。

おわりに

 誰かが読みやすくしてくれた情報は、現代に必要なものだし、私だって普段から利用している。だけど、食べやすくされた情報のお粥だけしか受け付けなくなってしまうのは防ぎたいなと思った次第です。
 政治に関する情報なんかは、特に文体も読み辛いと感じる人もいるだろうし、考えの塊みたいなもんだから複雑で、読み解くのに必要な知識が多かったりする。料理するのに知識が必要なお魚みたいな感じで。
 だけど、そういったことにも対応できるように普段から少しづつ自分で情報を料理できるようになったらいいのかなって私は思います。

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