Care Beyond Cure
初めてのnote。
自己紹介するべきなんだろうけど、それは今度に置いておこう。
本題は、3から
1.わたしの〈いま〉
右半月板の手術をして(9月9日)、現在入院中のベッドの上
昨日から、松葉杖で一人でトイレに行く許可が下りた。
訳あって退院予定日は2日延びた。落ち込んだ。
実は2度目の手術。
前回は、左膝。今回は右膝。つまり、両膝割れてた。そんな人なかなかいないらしい。
前回の手術は、痛過ぎて寝れない・食べれない・何もしたくない って感じだった。
今回はnoteを書く余裕がある。まぁ、痛くて寝れないから書いてるんだけど。
2.コロナ渦での入院
コロナ渦に入院・手術することなんてもうないと信じたい。
・入院当日に、PCR検査と胸部のCT検査
検査時間は15分もかからないけど、結果が出るまでの約3時間は院内待機。
陰性であれば、入院が許可される。
・基本的に面会禁止。
入院日、手術の日、退院日以外の外との接触は認められていない。
孤独感増し増し。
・患者からもわかる人手不足
手術数を減らし、緊急度の高い患者が集まっているので人手が必要
コロナ騒ぎで40人ほどの看護師さんが退職していったそう…
ベテラン看護師さんたちがコロナ病棟に回されて、若い看護師さんで必死に回してるのが見える
・患者同士の接触も最小限に
今回入院したのは、小児科と成人女性の病棟
普段なら、談話スペースが解放され、子供たちはプレイルームで遊べるが両方とも閉鎖。基本的には各自のベットで過ごす。
そんなこんなで入院したわたしは「ケア者になる前にケアされる側になった」
3.本題: 〈いま〉痛い。
「いま、あなたが感じている痛みは、きっと必要な経験なんだよ」
「振り返った時に、なくてはならない経験だったと感じるよ」
手術前にも、入院中もいろんな人に言われるこの言葉
いまは一番相性が合わない。
だって、〈いま〉痛いし、〈いま〉辛いから。
そんな、いつ来るかわからない先のことなんて何の慰めにもならない。
医学的には、簡単な手術だったかもしれない
時間的には、一年経てば日常生活も簡単な運動もできるようになる
周りから見れば、大したことない痛みかもしれない
それでも、私の〈いま〉の痛みと向き合ってほしい
明日には、韓ドラでも見てけろっとしているかもしれない
でも、〈いま〉とても痛い
手術した膝ももちろん痛い
それよりももっと痛いものがある
自分が病室の中で前に進めない時、前に進む人を見ると心が痛くなる
外の世界から遮断された病室では、カイロス的時計の針が止まったままだ。
友達の就職先が決まる。進路が決まる。
私は、病院のベットの上。やっと一人でトイレに行ける段階。
前に進む人を見ると邪悪な思いが溢れてくる自分の心に急いでダムを建設する
そして、今にも放流しそうなダムにドロドロな思いを抱えつつ、穏やかな人を演じる
なんで!どうして!が湧き上がる。
それは、疑問符ではなくて、怒りと悲しみを含んだ感嘆符。
あぁ。これがスピリチュアルペインか。
生きがいの喪失。生きる意味への問い。たましいの叫び。
そんな大袈裟なものでなくても大なり小なりこんな痛みを抱えている。
病室には、こんな痛みで溢れてる。
・右隣のベットの中1の女の子は体育の時間に大怪我をして緊急搬送、緊急手術。安全を守ってくれなかった大人に対して不信感を抱き、孤独と闘っている。もう部活ができないかもしれない。もう、身長が伸びないかもしれない。もう短いスカートは履けない。彼女にとっては大問題。
・左隣のベットのおばさんは生きがいだった日本舞踊が踊れなくなった。踊れないなら、リハビリもやる必要ない。踊れるようにしてもらうまで、退院しないと言い張る。結構わがままだけど、夜泣いてるのを知っている。
・斜向かいのおばあちゃんは今回で4度目の入院。病院内ではちょっとした有名人。介護が家でできないけど、施設には入れたくないと家族から言われ毎回3ヶ月は入院するそう。
怪我の痛みは薬を飲めば落ち着く。
でも、心の奥底が痛いときは…??
何でも言ってね。
と看護師は簡単に言うけれど、患者は人手不足なのを知っているし、シフト制だからいつ気が合う看護師が来るかわからない。
何よりお下(うんち・おしっこ)の世話をしてくれている人に、腹を割って話すことはできない。
真に〈いま〉の痛みと向き合ってくれる人は病院にはいない。
見えてきた。病院の中が。
見えてきた。痛みを抱えている人が。
4.病床での決意表明
だから、今まで何度も決意したことを、改めて病院のベットの上で文字に起こす。
自分を鼓舞するために。
やっぱり、私は臨床スピリチュアルケア師になろう。(今度詳しく説明する)
今は怪しく聞こえるけど、私が死ぬまでに立派な専門職として確立しよう。ブルーオシャンに飛び込むファーストペンギンになろう。
ケアされる側 —— ケアする側
それを超越し、
私たちが身に纏っている全ての属性を脱いで人格と人格で正面から向き合い、ともにいるそんな存在になろう。Face to face, side by side.
なんで!私が苦しむの?!どうしてこんなに心の奥底が痛むの?!
答えようのない問い。
学問の歴史は、哲学的問いの探究から始まった。
何千年もの間、多くの哲学者たちが戦ってきた問い。
それでも答えはまだ出てない。
そんな難攻不落な問いに、それも一人で闘うのには限界がある。
それは病院だけで湧き上がる問いではない。
日常に散らばっている痛み。
時間が解決するかもしれない。でも、その渦中にいるときは、永遠に痛みが続く気がする。だからケアできなくても、せめてその〈いま〉感じている痛みを知ってくれている人が必要だ。
医療者じゃないから縛られない。真に寄り添える。気がする
肝心なことを伝えそびれた気もするけど、消灯時間を大幅に過ぎたので、今回はここら辺で。
つまり、宮沢賢治の『雨にもマケズ』に出てくるデクのボーのような
そういうものに私はなりたい。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
なんだそりゃ。
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