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Track#2:走り続けることだけが生きることだと

とある夜、8時を過ぎた頃、ようやく一通りの作業を終えてデスクに戻ると、私と背中合わせのデスクに座った先輩がめずらしく一人で残業をしていた。彼と私のスペースには夜の作業に適当なボサノヴァが流れていた。

先輩、と言っても、15も年上だ。2児の父親で、幼稚園への送り迎えや朝ごはんづくりもこなす子煩悩なパパだ。決まって水曜の夕方には「晩ご飯は俺が作らなきゃだからね」と仕事を切り上げて帰って行く。この研究分野では最高峰と言われるニューヨークの大学で5年働いて、研究所で一番若い役職者である。順風満帆を絵にかいたような人だ。

先輩は私がデスクに帰ってきたことに気付いて柔らかく笑った。そして日本から出たことのない若者の私にあわせてか、音楽を邦楽に変えてみせた。しばらくは大橋トリオやサザンオールスターズなど当たり障りのない曲が続いたが、ふと、先輩は「この曲、誰が歌ってるかわかるか?」と言って曲を変えた。

福山雅治の歌うMidnight Blue Trainだった。この曲は福山雅治のカバーアルバム「魂リク」の13番目のナンバー。求められる音楽と自分のやりたい音楽の乖離に悩む浜田省吾の歌。やりたいことだけでは生きられない、世界はそういうもので、それに目をつむって走り続けるしかない。そういう叫びだ。

(良い音源がない。是非CDを買ってほしい。なんたって福山雅治だし。)

アコースティックギターにのせて、"魂のリクエスト"と呼ぶにふさわしい、心の声を絞り出すような歌い方が心の深いところまで歌詞を届けてくる感じ。

描いた夢と 叶った夢が まるで違うのにやり直せもしない

福山雅治がそんな風に歌い上げる頃、先輩は「久しぶりにこの曲、聴きたくなったよ…」と溢した。先輩は迷いのない人だ。後にも先にも彼が迷いを見せたのはこの曲を聴いているたったの5分間だけだった。

彼はいつも「悩む時間が無駄だろう?悩んだって結局結果はやるかやらないかの2択なんだ。」と悩んでばかりの私を励ました。そして最後に必ず「若いね、俺もそんな時代があったかな」と笑って、若さゆえに悩むことを否定したりはしなかった。

もう帰ろう みんな投げ捨てて でもどこへ? いったいどこへ…

今の仕事が、先輩のやりたいことと段々ずれていっているのを私は知っていた。自分の迷いをたったの5分の音楽に紛れ込ませて、彼はまた走り続けるのだろう。背負う家族がいて、やりたいことを追いかけて走ることはできない。けれどそれがオトナってもんさと笑いながら。

走り続けることだけが生きることだと迷わずに答えて

そんな風に自分をごまかしながら。

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