第93回 これも誰ゆえ桜姫


小学校時代仲が良かった同級生が、日本舞踊のお師匠さんの息子だった。彼も当然日本舞踊を習っていたのだが、その後歌舞伎役者の道に進んで七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)の弟子となる。
歌舞伎が好きな方はご存知かと思うが、わざわざ「梨園」という言葉があるくらい歌舞伎の世界は血筋が重要視される。同級生の彼はもちろん外部から入った人間なので、大部屋の役者にしかなれない。しかしその中でも子役から叩き上げた彼は荒事(あらごと)と呼ばれる立廻りに頭角を現し、いっぱしの役をもらえるまでになった。惜しいことにこれからという時に病気で世を去ってしまったのだが、私を歌舞伎の世界に導いてくれたのは、間違いなくその彼、坂東みの虫、のちの三代目坂東三津之助であった。

彼が歌舞伎役者になって間もない頃というのは、ちょうど五代目坂東玉三郎の人気が上り調子だった時である。片岡孝夫(今の仁左衛門)との「孝玉コンビ」が出る芝居はどれも大人気だったが、中でも『桜姫東文章』という演目は、玉三郎のためにあるかと思うほどの当たり役で、本当に素晴らしかった。孝夫が演じた「色悪」と呼ばれる悪役も良かったが、お姫様から場末の女郎までを演じ分ける玉三郎の存在感は、圧倒的であった。
この『桜姫東文章』というのは鶴屋南北の戯曲で、江戸時代の文化14年(1817年)の初演後長い間上演されなかったそうだ。昭和に入って初代中村吉右衛門が復活させその後戦後も何度か上演されたが、この時は久しぶりに玉三郎が通し狂言として4時間強の舞台を演じたのだった。
まだ学生だったので高い席は買えない。何度も通うためには3階の安い席を買うしかなかった。当時の歌舞伎座の3階席は、修学旅行で訪れて一幕だけ観る生徒たちや、「大向こう」さんと呼ばれる掛け声のプロたちがいて、これはこれでなかなか面白かった。

『桜姫東文章』は、稀代の女形であった六代目中村歌右衛門も演じている。玉三郎は歌右衛門とはなにかと確執があったと言われているが、この二人の女形の資質は近いようでかなり違うのではないだろうか。
歌右衛門は丁寧に気品ある現世の女性を演じる。それに対して玉三郎が本領を発揮するのは、この世ならざる存在を演じる時である。泉鏡花作『天守物語』の富姫は妖怪だし、『京鹿子娘道成寺』の清姫は蛇になる。『鷺娘』なんて最初から鷺だ、人間どころか鳥なのだ。
玉三郎は梨園の出ではない。小児麻痺の後遺症のリハビリとして通った日本舞踊に魅せられ、十四代目守田勘弥の芸養子となって五代目坂東玉三郎を襲名するという、かなりイレギュラーな出自である。そのためか玉三郎には常に外部との境界線上にいるようなアウトロー的風情が感じられる。歌右衛門が生涯歌舞伎以外に出演しなかったのと対極で、玉三郎は新派の舞台に出演したり映画を撮ったり、モーリス・ベジャールの振付のバレエを踊ったり京劇に出たりと、境界を逸脱することを恐れない。
それはまるで、人と物の怪とを自由に行き来するその役通りの姿であり、その身軽さに少女性をみて私は魅了されたのかもしれない。

歌舞伎座も建て直された。まだ新しい歌舞伎座には足を踏み入れていない。
伝統芸能といっても歌舞伎は、現在に通じる十分面白いエンターテイメントだ。
新しい役者や演出で、また『桜姫東文章』を観てみたいものである。


登場した役者:坂東三津之助
→小学校の幼馴染でよく一緒に遊んだものだ。人を笑わすのが好きで、クラスの人気者だった。中学生になると彼は稽古で忙しくなり、あまり学校では出会うことが少なくなってしまったが、そのぶん私の方が歌舞伎を観に行く機会が増えて、役者の彼の姿を眩しく眺めた。国立劇場養成課の立廻りの講師も務めていたそうだが、老成した演技も観たかったな。山田くん、51歳で逝くのは早過ぎるよ。
今回のBGM:「ボレロ」 モーリス・ラヴェル作曲 ピエール・ブーレーズ指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
→モーリス・ベジャール振付といえば、この「ボレロ」。もともとバレエ曲として作曲されており、最初のタイトルは「ファンダンゴ」だったそうだが、絶対「ボレロ」にして良かったと思う。

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