第45回 写実の先へ


中学生の頃から日本画が好きだった。思えば随分と渋い好みである。
今でこそ伊藤若冲がポピュラーとなり、日本画の展覧会にも沢山の人が足を運ぶようになったが、つい最近まで日本画を観ることは、西洋画に比べてそれほど一般的ではなかった気がする。
今でも好きな日本画家を何人か挙げてくださいと言われてすぐ答えられる若者は、余程アートに興味がある人くらいだろう。ゴッホ、マネ、セザンヌ、ピカソと西洋画家ならすぐに何人も名前が出てくるのに、それに比べて日本画家のなんとマイナーなことよ。こんなことを書いたら現役の日本画家の方々に怒られそうだが、実際そんなものだと思う。少し年配の方なら横山大観くらいの名前は出てくるかもしれないが。

一番好きな日本画家は、竹内栖鳳だ。
「東の大観、西の栖鳳」と東西並び称されたこの戦前の京都画壇の重鎮は、近代日本画の先駆者と言われている。その革新的な画風は「鵺派」と揶揄されたそうだが、パリ万博に出展したのを機に西欧を旅行しターナーなどから強い影響を受けたと言われるように、それまでの日本画とは一線を画する自由闊達な作品の数々は今でも魅力的である。
栖鳳の作品に出会ったのは、中学生の時にたまたま展覧会に行ったことがきっかけだった。それまであまり意識して観たことのなかった日本画の生き生きとした描写と、空間を巧みに操る絶妙な構図に、すっかり夢中になった。
中でも惚れ込んだのが、栖鳳の代表作と言われる作品「班猫」(通常まだらの模様の猫なら「斑猫」であるが栖鳳自身の箱書きに倣うならこちらの漢字)である。翡翠色の眼をしたキジ白柄の猫が毛づくろいをするためにこちらを振り返っているその姿は、猫のしなやかな肢体とこちらを伺う隙のないその表情の中に、猫の魅力を余すところなく表現している。大きな画面に猫だけが描かれたその作品の、大胆な構図と確かな描写力。単なる写実に終わらないその作風は、けものを描けばその匂いまで表現できると言われた、栖鳳の真骨頂であろう。
動物のみならず、栖鳳は雀もよく描いた。栖鳳の弟子である上村松園の息子上村松篁は、鳥の画家として有名であるが、松篁の描く鳥がある種「花鳥画」の伝統を継いで美しくスタティックなものであるのに対し、栖鳳の雀はもっと野趣溢れるダイナミックな描かれ方であり、「班猫」にも通じる自由さを感じる。
同じ生き物を描いているのでも、精緻でグラフィカルな伊藤若冲や、最近展覧会が続いて人気が出ている洒脱な河鍋暁斎とは異なる、一瞬の動きを活き活きと描写した栖鳳のその筆致は、猫という生き物を描くのに相応しい。

伝統的な日本画において、少女という主題はほとんどみられない。近代では少女というと岸田劉生の「麗子像」がすぐ挙げられるが、あれは外部から見た具体的な少女であって、精神性としての少女を描いたものではない。晩年の藤田嗣治の作品には、その特徴的な真珠色の肌をした少女たちが多く描かれているが、天使のように無垢で高潔に描かれたその少女たちよりも、自由にのびのびと描かれたフジタの猫の方が少女らしく思えてならない。
現代においては日本画で少女を描く画家も多くなっているが、いくら正確に描かれているとしても記号化されたアイコンとしての少女ではつまらない。“誰も見たことのない絵”を目指して写実のその先を目指した竹内栖鳳の猫の中に存在する、ある種獰猛な生命力に少女性をみるのは強引だろうか。


登場した画家(のアトリエ):霞中庵
→京都市右京区にあった竹内栖鳳のアトリエは、その隣にあった竹内栖鳳記念館とともに、現在は(株)ボークス所有となり、かのスーパードルフィー関連の施設となっている。
今回のBGM:「弦楽四重奏曲ト短調」クロード・ドビュッシー作曲 メロス弦楽四重奏団
→栖鳳と同時代に生まれたドビュッシー。ピアノ曲が有名だが、唯一の弦楽四重奏曲であるこの曲は発表当時賛否両論だったらしい。第1楽章「活気をもって、極めて決然と」というタイトルがいいではないか。

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