第139回 画像はイメージです


チューリップの球根を買ったはずであった。
冬の間に植えるつもりが時期を逸し、そのままの状態で芽が出始めてしまったため慌てて3月に植木鉢に植えたのだが、無事に土から芽が現れたので安心していた。だいぶ気温も上がり日差しも強くなり始めたので屋外に出すと、ぐんぐんと伸びる。
20センチくらいになり、細い葉が何枚もひょろひょろと風になびいているのを見て、ふと不安になった。確か私はミニチューリップを買ったはずではなかったか。付いていた紙のイメージ画像には、丈が10センチ位の如何にもチューリップという内側にカーヴしたしっかりした葉に、八重咲きの赤やピンクの花を付けた愛らしい植物の写真が載っていた覚えがある。

謎の植物はなおも成長して、ひとつの茎からいくつもの蕾を付けた。普通チューリップの花は1本につき1つである。おかしい。蕾もなんだか細長い。そして花が咲いたところを見ると、どう考えてもこれはチューリップではない。白く薄く小さな花弁が全開になっているが、チューリップの花は通常すぼまった筒型である。それになんで白いんだろう、赤とピンクの花が咲くはずなのに。
いったいこれはなんなんだと画像を検索してみると、一番近いのはハナニラのようだ。断じてハナニラは買っていない。物凄く贔屓目に見れば、原種のチューリップに見えないことはないが、なんとなく違う。
イメージ画像が掲載されていた紙を取っておけばよかったと、心底後悔したことであった。

随分前から広告には「画像はイメージです」という断りが書かれるようになった。広告やパッケージは宣伝のためのものだから、多少盛ってあるのは当然のことと了承済みの上で、我々は少し薄目でそれらを見ている。
それでもダイエットの広告によくあるようなあまりにも修正されたものは、割り切って見ても滑稽だ。ある広告で、太った女性の写真と痩せた女性の写真を並べた横に「写真は別人です」と書かれていたのを見た時は、言うに事欠いてと呆れると同時に、その開き直りに妙に感心したものだった。

ネット上にあふれている画像は、大なり小なり加工されたものが殆どだろう。1990年にAdobe社が、Photoshopという画像加工ソフトをMacintoshのプラットフォーム上に送り出した時から、画像はイメージになった。
当初PhotoshopはMacでしか使えなかったので、アート関係の人のPCはMacが占める割合が多かった。今ではもちろんWindows上でも使えるし、Photoshopでなくてもスマホで使える画像加工アプリはいくらでもある。
インスタなどのSNSにアップされている写真は、もはや現実そのものだとは誰も思っていないだろう。修正し過ぎて誰かわからなくなっているような写真もよく見かける。10年前にはそれでも実物と異なる修正がなされていると、それを指摘して非難するようなコメントがついたものだが、今ではあまり前になり過ぎてわざわざ言う人などいない。誰もがそういうものだと思っている。

考えてみれば、我々が見ている世界自体が脳が作り出したイメージである。
視覚情報そのままではなく、脳で加工されたものを「見ている」のだ。そこにあるのはリアルな現実世界ではなく、ひとりひとり異なった世界だ。そして人間は概ね見たいものしか見ていない。
何年か前に写真館の人が嘆いていたが、成人式の写真を撮ると「これは自分ではない」とクレームをつける人が多いそうだ。あまりにも普段自分で自分の顔を修正しているため、理想の自分の顔が本物だと信じるようになっているのである。こうなるともはやアバターが実物に成り代わっていると言ってもよい。

画像はイメージなのだ。
だとしたらこのなんだかわからない植物も、心眼で見ればチューリップなのかもしれない。チューリップにもいろいろある。あの紙に載っていた写真は、我々がイメージする「チューリップ」という概念を描いたものだったのだ。
そう考えれば、この頼りなげに風に揺れている白い花も愛おしく思えてくる(かもしれない)。


登場したソフトウェア:Photoshop
→英語では「photoshop」がもはや動詞となっているが、加工修正のマイナスイメージがあるため、Adobeは使わないようにとガイドラインで呼びかけているそうだ。日本語でも「フォトショする」があるので、もう無理だな。
今回のBGM:「The Great Escape」by Blur
→Photoshopが発売された1990年結成のBlur。英国のブリットポップの象徴であった彼らの音楽は、ポップでありながらどことなくシニカル。最後に謎の日本語も入ってるし。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?