第109回 ひるのいこい
小学校、中学校、高校と放送部に所属していた。
とはいえ放送コンテストの全国大会に出るとか、そういうトップレベルとは全く関係なく、単に校内放送の係といった程度である。
お昼休みに流す音楽や、下校時間の放送を受け持つくらいのゆるい役割だったのだが、いまでも「トロイメライ」のメロディーを耳にすると、「下校の時刻になりました」とマイクに向かって喋っていた記憶が、夕暮れの少し物悲しい気分とともに蘇る。
中学校の放送部の顧問は、美術の先生だった。
丸刈りでいつもデニムのつなぎを着たその先生は、口が悪くマイペースで教師というには異色の存在であり、ユニークな先生が多かったその中学の中でも際立っていた。ちなみにそんな様子なので生徒には慕われていたが、親たちにはすこぶる評判が悪かったようだ。
その中学では朝昼夕と1日3回放送をするので、放送部員は放送室に入り浸っていることが多い。最初のうちは張り切って、朝の放送で喋る原稿を前の日の夜に一生懸命書いて持っていった。それを先生に見せると一刀両断に「全然駄目」と駄目出しが出て、大幅に添削される。
頭だけで考えた原稿は、「今日は誰々の命日です」とか「何年前の今日はこんなことがありました」など、どこかで調べてきた知識を自慢気にひけらかすような内容であった。先生は、これから1日が始まるという時に誰が死んだ日だとか聞きたいか、過去の出来事を聞かされて今日も頑張ろうとか思うか、と言う。
確かにそうだ。言われてみれば自分の原稿は単なる自己満足でしかなく、爽やかな朝の放送というには程遠かった。登校してくる生徒たちだって、そんなにしっかりと放送を聞いているわけではない。ふと一言の言葉が耳に入る、校内放送なんてそんな程度のちょっとしたことで良いのだ。
毎日毎日そうやって駄目出しをされるうちに、段々コツがわかってくる。登校時に見つけた季節の彩りや校内の行事、つまり当たり障りのない、朝の気分に水を差すような内容ではないこと。それは綿密に調べて知識を仕入れて喋るようなものではなく、日々の何気ない出来事を肩の力を抜いて語ることに近い。
そうしたある日、いつものように原稿を見せると先生は「いいんじゃない」と言って、そのまま返して寄越した。そしてその日を境にいっさい口を出さず、自由にやらせてくれるようになったのだった。
その時点ではもう原稿も殆ど必要なく、気候や校庭の花など自分が目にしたり感じたりしたことから、さり気なくわかりやすく優しい言葉で語るという技術が身についていた。
昼の放送に関しては、最初から比較的自由にやらせてもらえたと思う。
それをいいことに我々放送部員は、今日は洋楽明日は朗読など、曜日によってメニューを決めて好き勝手な放送をしていたものだ。
当時私はデビューしたばかりのクイーンにはまっていたので、LPをかけまくった。給食を食べている最中の校内に、「ボヘミアン・ラプソディー」が朗々と響き渡ったこともある。友人の部員はプログレ好きであったため、ピンクフロイドやキングクリムゾンを競うようにかけていたが、プログレは1曲が長いため時間が足りなくなることが多かった。イエスなんてLPの片面が1曲だぞ。在校中はそうやって毎日楽しく、昼の放送を楽しんでいたのだった。
ケラリーノ・サンドロヴィッチが監督した映画『1980』の冒頭で、テクノポップのレコードを校内でかけて怒られるシーンがあった(と思う)が、私がその中学を卒業した後、校内放送はロック禁止となったそうだ。我々がちょっと自由にやり過ぎたのかもしれない。それでも在学中は、その顧問の先生が防波堤になっていたのだろう、好きなようにやらせてくれたものだ。
あとで知ったのだが、その顧問の美術の先生は戦前は新進気鋭の日本画家だったそうだ。戦争に協力的だった美術界に嫌気がさして、画家を辞めて中学の教師になったのだという。反骨と奔放、変人に見えながらも今思えば理知的で常識的な人であった。
いまでも話をする時には、声のトーンや速度などに加えて、わかりやすく、独りよがりにならないようにと考える。
他者に伝えるということはどういうことなのか、あの時の先生に問いかけながら。
登場した映画:「1980(イチキューハチマル)」
→KERAの初監督作品。ともさかりえ演じる元アイドルがブチ切れて言う「大人になったからといって、大人になれるわけじゃないのよっ!」が沁みる。及川光博の怪演も良い。
今回のBGM:「海洋地形学の物語」by YES
→はい、片面1曲ずつです。LP2枚組で4曲しか入っていません。
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