288回 心地よく秘密めいた場所


墓参りにはずいぶん長いこと行っていない。
最後に行ったのは父親が亡くなった時だから、10年前か。
とにかく実家の墓がある寺は東京北部にあり、私が住んでいる場所からは遠くて行きにくい。おまけに現在は実家も引き払ってしまっているため、墓参りどころではない。
そもそも3回忌などの法事もやらなかったくらいドライな感覚をしているので、墓にも墓参りにも執着がないのだ。信州に住んでから、墓を守るために両養子(夫婦揃って養子に迎えること)をとったという話をよく聞くようになって、驚いた。それだけ先祖代々の墓を大切にしているということだが、なかなか難儀なことだなとも思う。
リアリストなので、過去も未来もあまり気にならない。故人を偲ぶのはその人の自由だが、いつまでも故人に執着することなく、今生きている人が心穏やかに暮らせればそれでいいのではと思っている。この辺り一人一人の宗教観や死生観によって異なるところなので、もちろんこれは私個人の考えである。
墓も墓参りも、言うなれば生きている人のためのものだ。生きている人が不便で困るならば、変えればいい。

そもそも現在の日本で一般的な墓として思い浮かぶような、寺の墓地にある「◯◯家の墓」という形式は、意外と歴史が浅い。
墓に類するもの自体は、ネアンデルタール人の頃から存在したようだ。人類(とその近縁)は昔から死者を丁重に弔ってきたらしい。
日本でも北海道で、旧石器時代の遺跡から人骨を葬った跡が発掘されている。縄文時代には、遺体を膝を抱えるように折り曲げて土坑墓と呼ばれる穴に埋める「屈葬」、弥生時代には大きな甕棺に遺体を納めて埋める「甕棺葬」が行われた。3世紀から4世紀にかけての古墳時代には、世界3大墳墓の一つである仁徳天皇陵などの大規模な墓が作られたが、もちろんこれはごく一部の権力者のものであり、庶民は縄文時代や弥生時代と大して変わらない埋葬方法であったようだ。
飛鳥時代の646年には、大和朝廷から大化の改新で「薄葬令」が布告され、墓の大きさが制限された。これにより古墳時代のような大規模墳墓は作られなくなる。奈良時代から平安時代に入ると、仏教の影響により貴族階級では火葬が行われるようになった。そして鎌倉時代には、仏教が浸透したことで一般庶民も火葬を行うようになるが、土葬も並行して行われていた。この頃は火葬にしろ土葬にしろ、地面に埋めた後には墓石などの墓標になるようなものは何も置かれなかったそうだ。

不思議なことに、江戸時代になると火葬が廃れて、土葬が主流となる。
死装束を着せた遺体を棺桶に納めて土中に埋め、その上に土饅頭と呼ばれる盛土を行う。これが墓という形式の原型となった。武士の墓には板塔婆や石塔婆などを建てるようになり、それが庶民にも広がって、卒塔婆や墓石などを墓の上に設置することが一般的になったと言われている。
そして江戸時代中期になると、徳川幕府は住民の統制を行なうため(キリシタン排斥のためとも)に「寺請制度」というものを設けた。全ての住民はどこかの寺の檀家とならなければならず、寺は住民の情報を管理する現在の役所のような役割を担うようになる。この制度のせいで、江戸時代には墓は寺が管理するものしか許可されなかった。
明治時代になると廃仏毀釈が行われて神道が主流になったため、仏教が基となる寺請制度も廃止され、墓も自由に作れるようになる。宗教にとらわれない公共の墓地ができたのもこの頃からだ。急速な都市化に伴い、再び土葬から火葬が多くなるが、昭和初期でもまだ土葬と火葬は半々であったとのこと。
現在の墓の在り方を規定しているのは、1946年に制定された「墓地、埋葬等に関する法律」略して「墓地埋葬法」である。この法律に基づいて、火葬土葬を問わず(今でも土葬は禁止はされていない)、亡くなった人を埋葬する時や墓を移す時には自治体に届け出をしなければならない。

沖縄以外の日本で一般的に見られる墓石は「和型墓石」と呼ばれるもので、台(上台、中台、芝台)の上に縦長の仏石(ほとけいし)が乗っている構造である。仏舎利塔や五輪塔の形が元となって、江戸時代から用いられた。
とはいえ実際にはそのような3段の和型墓石を建てられたのは限られた一部の人だけで、大正時代より前は、ただ石を埋葬した土の上に置いただけのお墓「野石」が最も主流であった。野石に故人の名前や享年、碑文を彫っただけのシンプルなものである。沖縄で見られる亀甲墓や破風墓も、一般の人が持てるようになったのは明治時代以降だそうだ。
土葬でも火葬でも、もともと墓というのは個人で埋葬するのが基本だったが、明治時代以降人口増加に伴い埋葬地が不足してくる。またこの時期に家長制度がつくられ、長男が家督を継いでいくという形式が法律化された。この2つが主な理由となって、現在の墓の形である「○○家の墓」という形態のお墓が登場するようになったのだ。
世界的にみると、墓は個人単位での埋葬が普通で、家単位というのは珍しい。日本でも最近は、個人で「洋型墓石」と呼ばれる低めの横型の墓石に好きな言葉を刻んだものも多く見かけるようになっている。自分がデザインした墓を、生前に建てておく人も結構いるだろう。

キリスト教では、この世の終わりにイエス・キリストが再臨して、すべての死者は復活してよみがえり、天国に行くか地獄に行くかの最後の審判を受けるとされる。そのため肉体が消滅しまわないように、火葬ではなく土葬が基本であった。ただ時代の流れに沿って、プロテスタントに続きカトリックも、火葬も教義に反しないとの声明を出したため、近年では火葬も増えている。イギリスでは7割が火葬だそうだ。
イスラム教も最後の審判に関しては同様の教義を持っているが、宗教法の定めとしての土葬規定はもっとも厳しく、火葬は許されない。そして土葬にする際は24時間以内に地面に埋めて、その場合必ず頭をメッカの方向に向けなければならないので、イスラム教徒が少ない異国の地では埋葬の土地の確保に困る。日本でもイスラム教徒の人が増えているため、この墓地の確保が様々な軋轢を起こしていると聞く。

チベットの鳥葬や風葬のように、もとより墓を作らない死生観の土地もある。日本は世界で一番火葬の進んだ国で99.9%が火葬であるが、最近では墓を作らない選択をする人も増えている。少子化により先祖代々の墓を守る子孫がいなくなったという現実もあり、墓じまいをする人も多くなっているという。
散骨や樹木葬も人気だ。墓地埋葬法で遺骨は「都道府県知事が認めた、墓地以外に埋葬してはならない」とされているが、散骨についてはグレーゾーンであった。1991年に法務省が「葬送のための祭祀として、節度をもって行われる限り遺骨遺棄罪に違反しない」という見解を示したため、欧米に倣って遺骨の形を留めない2mm以下にまで粉骨することで、セレモニーであると証明できることになっている。
散骨はどこにでも好きなところに撒けるわけではない。海に撒きたいという場合は、散骨業者(というのが存在するのだ)に頼んで決められた海域に撒くことになるが、かなりの費用がかかる。富士山の頂上というのも、そこは富士山本宮浅間大社の私有地なのでもちろん不可である。
人間は死んでからも自由にならず、なかなか厄介なものだ。

タイは仏教国なので、仏陀に倣って火葬を行う。そして川や海に散骨するのが一般的だ。
彼の地では、人は水、土、空気、火という4要素から成り、死ぬとそれぞれの要素は元に戻ると言われる。確かに荼毘に付され(火)、水蒸気(水)と二酸化炭素(空気)になって空に昇り、遺骨は埋葬(土)される。
執着しない。自然の循環の中に解き放てばいい。
私はそれが気楽でいいなと思っている。


登場した用語:世界3大墳墓
→高さ世界一のエジプトの「クフ王のピラミッド」、体積世界一の中国の「始皇帝陵」、そして面積世界一の日本の「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」で3大墳墓という。しかし仁徳天皇陵に埋葬されているのは仁徳天皇ではないという説もあり、現在は「大仙古墳」と場所の名前で呼ばれることが多くなっている。
今回のBGM:「クープランの墓」 モーリス・ラヴェル作曲 ピアノ演奏アレクサンドル・タロー
→第一次世界大戦で亡くなった友人たちへの追悼としてラヴェルが捧げた組曲。6曲目の「トッカータ」は、ラヴェル自身が弾けなかったというピアノの屈指の難曲として有名である。


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