245回 レイニー・ブルー


梅雨である。
信州に来てしばらくは、殆ど梅雨らしい梅雨がなく大変爽快だったのだが、近年は暦通りの梅雨らいし気候となってしまい、いささかがっかりしている。それでも東京の湿気に比べればかなりマシと言えるだろう。
この時期、雨が降る前の日には必ずと言っていいほど、蟻が家の中に侵入する。蟻はサイズこそ大中小とあるが、全て相似形の「蟻」なのが面白い。
いや、蟻の話ではない。今回はレインブーツ、長靴の話である。

長靴と書くと、普通は「ながぐつ」と読むと思われる。
実はこれ、辞書には2つの読み方が書かれてあり、それぞれ違うものを指す。「ながぐつ」はゴムでできた雨天用のブーツ、所謂「ゴム長」である。それに対して「ちょうか」と読む場合は、軍人が乗馬や防寒のために用いる革製のブーツのことだ。どちらも膝下まである長い靴という点では変わりがない。
元々長靴の起源は、19世紀にイギリスで広まったウェリントン・ブーツだと言われている。ナポレオン戦争の英雄、初代ウェリントン公爵のアーサー・ウェルズリーが、乗馬の際に怪我しやすい足の脛を守るために長い革靴を注文したのが発祥だそうだ。イギリスではゴム長のこともこれに因んで「ウェリーズ wellies」と呼ぶとのこと。
ウェリーズのブランドといえば、1856年創業スコットランドのHunter社が有名である。お洒落なレインブーツとしても日本で人気があるが、本来は質実剛健なゴム長なのだ。
フランスでは1853年創業のAigle社が、園芸などのアウトドア仕様としてのゴム長を出しており、日本ではHunter社と人気を二分している。

では日本製の長靴はいつできたのか。こちらは日本橋の魚河岸が発祥の地であった。
魚河岸で作業用の下駄を扱っていた伊藤千代次が、ゴムという素材を目にして「これからはゴムの履物の時代だ」と下駄屋を閉めて、1910年(明治43年)に「伊藤ゴム」を創業する。思い切ったものであるが、時代の先を見る先見の明があったと言うべきだろう。
1951年にアメリカの百貨店が発行した通信販売用のカタログに、「エレガン・レイン」という名前の女性用のゴム長靴が掲載されたと知ると、彼は早速そのカタログを取り寄せる。そして魚河岸に適したゴム長の開発に着手したのだ。魚河岸の床は常に濡れている状態である。滑りにくい靴底を目指して、蛸の吸盤をヒントにゴムの成分や吸盤の形を工夫し、大正時代に入った頃「白底付大長(半長)」と言う国産長靴第1号が完成。その後も改良を続け、日本橋から築地に移った魚河岸の靴の底を支え続ける。
1958年(昭和33年)には、社名を「伊藤ウロコ」に改名。この「ウロコ」は魚の鱗ではなく、商売繁盛の神様である白蛇の鱗と、海難事故から漁師を守る龍神の鱗からきているそうだ。
魚河岸が築地から豊洲に移転した後も、ゴム長靴専門店として5代目が店を守っている。最近はグッドデザイン賞を受賞したスタイリッシュな長靴など、実用性とファッション性が両立した優れた商品も販売しており、人気を博している。

上記と並行して、1954年に日本ゴムが、1969年にはアサヒゴムが、所謂ゴム長ではないお洒落なレインブーツを発売。1978年には銀座かねまつがエナメル素材のレインブーツを売り出し、雨の日だけでなく晴れの日にもファッションとしてレインブーツを履くことが流行した。そういえばこの時代はミニが流行していたので、丈の長い靴であるレインブーツとはバランスが良かったのだろう。
一気にレインブーツがファッションの最先端に躍り出たのは、2005年イギリス最大級の野外ロック・フェスであるグラストンベリー・フェスティバルに、人気モデルのケイト・モスがHunter社のレインブーツを履いて参加したのがきっかけと言われている。
実はこのフェス、毎年天気が悪く(イギリスらしい!)足元がぬかるんでいるため、レインブーツは実用的な目的で選ばれたと言えるのだが、これを機に世界中で大ヒットし、日本の野外フェスでもレインブーツが定番になったそうだ。

レインブーツは何足か所有しているが、このところあまり出番がない。
晴天率の高い当地にしては近年雨が多くなっているのに、だ。これはひとえに地方あるあるで、ほとんどの移動はクルマで行ってしまうため、雨の中を長い時間歩くと言うことがまずない。故に傘も好きで沢山持っているのにもかかわらず、出番が少ないのが悲しい。いわんやレインブーツおやである。
さて今日こそは履こうかと思っても、たかだか駐車場から建物まで数十メートルの距離のために、レインブーツを履くのは大袈裟ではないか、まあ普通の靴でいいか、となってしまう。ブーツのような長い靴は、脱ぎ着に手間がかかるので、どうしても億劫になるのだ。
いやいや、お洒落のためには手間を惜しんではならぬ。とは言うものの、ついまあいいかとなり、レインブーツの出番がなくなる。

今では長靴といえば作業用の黒いゴム長を指すことが多い。一方レインブーツには、すっきりと細く色もカラフルなものが揃っている。
面倒がらずにレインブーツを履き、レインコートに傘と万全の雨支度を整えて、たまには雨の中に出かけてみよう。ゲリラ豪雨にならないことを祈って。


登場したフェス:グラストンベリー・フェスティバル
→正式名称「Glastonbury Festival of Contemporary Performing Arts」、世界でも最大規模の野外音楽フェスである。1970年に始まった頃は、音楽に限らず演劇や映画上映まであったそうだ。会場は広大な農場だそうで、それは雨が降ればぬかるむだろう。
今回のBGM:「Rainy Blue」by 徳永英明
→2005年から続けている女性歌手の楽曲のカヴァーで、あらためて有名になった徳永英明。1986年に発売されたこの曲がデビュー・シングルである。彼の哀愁を帯びたハスキーな高音が、終わった恋を歌うこの曲にとても良く合っていた。


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