第121回 冬のダイアリー


片付けというものは、忘れていた記憶を蘇らせてくれる。
自分が昔こんなに日記を書いていたということをすっかり忘れていたので、ダンボールの中から出てきた数十冊の日記帳を見て驚いた。
中には小学生の頃の、まだひらがなが多い拙い日記もあり、よくもとっておいたものだという感慨とともに、その意気がった幼い内容に赤面してしまう。ちゃんとした文章で書かれた日記だけでなく、スケジュール帳に何かあったときに一言だけ書き込んである日記とは到底言えないようなものも多いが、それでもその一言の言葉を読めば、当時何をしていたかだけでなく何を考え何を感じていたのか、その一端を思い出すことができる。

日記と言えどもそこに書かれているのは事実そのものではなく、書いた当人の主観だ。だからそれはフィクションといっても良い。古今東西に残されている日記も、そこに書かれているのも換言すれば著者が見て感じた世界の在り様であり、だからこそそれに意味がある。
有名なところでは、古代ローマのカエサルが記した「ガリア戦記」があるが、これなど紀元前1世紀のケルト人とゲルマン人に関する重要な資料であると同時に、ラテン語の名文とされている。この「ガリア戦記」は客観性をもたえるために、一人称ではなく”カエサルが"という三人称で書かれているのが特徴だ。
また平安時代の日本では殊の外日記文学が盛んで「土佐日記」「蜻蛉日記」「更級日記」などの今に残る作品の数々が生まれている。「土佐日記」は紀貫之による日記を元にした文学作品であるが、当時の常識であった漢文ではなく仮名文字で書かれたことにより、その後の女流文学に多大な影響を与えたとされる。
言うまでもなく有名な「アンネの日記」は、原題が「Het Achtehuis(後ろの家)」といって、作家志望であったアンネ・フランクが初めから出版する目的で書いた日記である。なので登場人物の名前も実際の名前とは変えてあり、あくまでも現実の出来事に基づいた日記様の文学作品なのだ。
日記そのものではないからといって、これらの作品の価値は微塵も揺らぐことはない。書かれたものは誰かによって書かれたというその時点ですべからくフィクションであるのだが、そこには書いた人間のまごうことなき真実が否応なく表れているからである。
日記というのは、限りなくノンフィクションに近いフィクションなのだ。

小学生時代の日記を読み返してみると、その文章の中に当時のませた生意気な自分があまりにもありありと存在していて、非常に恥ずかしい。
日記は本来他人に読ませることを目的とするわけではなく、自分の覚書のようなものだ。それにもかかわらず小学生の私は、まるで世界に対して宣戦布告をするが如く日記の中で妙に意気がっている。おそらくその頃の自分は、何かわからぬ抑圧に対しいつも戦っている気分だったのだろう。
そういえば当時交換日記なるものが、クラスの子供たちの間で流行っていた。私は誰とも交換日記をしたことはないが、特定の相手に読ませるための文章ならばそれは手紙で十分であり、日記のかたちを取る必要はない。

日記はプライベートだからこそ日記である。他の誰かに読ませるために書くのではなく、自分のために書く記録。
「人生とは記憶である」と同時に「人生とは記録である」のだ。日記に記されるのは一人の人間の人生の記録である。その記録とは現実に起こった出来事だけではなく、書き手の思いそのものを含んだ記録なのである。だから日記に書かれたことは、その人が生きていたという事実そのものといってもいい。
日記は人生という孤独な戦いの記録である。
大仰に構えず、また綴ってみようか。
いつか不在の少女が読むかもしれない日記を。


登場したフレーズ:「人生とは記憶である」
→神林長平の短編小説「イルカの森」のエピグラフの言葉。「人生とは記憶である だれの言葉だったか もう忘れてしまった」と続く。神林はビルドゥングスロマンSFの傑作『膚の下』でも、主人公の日記を彼が生きた証として象徴的に描いている。「書くという行為は祈り」なんだよ。
今回のBGM:「ANIMA」by Thom Yorke
→全ての作品ももしかしたら、創作者の今を記録する日記の一種といえるのかもしれない。

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