第129回 サクラソウ通信


年末に買ったシクラメンが枯れてしまった。
それまで我が家には20年もののシクラメンが2鉢あった。法医学教室にいた頃、信州大学農学部で栽培したシクラメンの出張販売で購入したこの2鉢は、夏の暑さにも冬の寒さにも耐え(いやどちらも出しっ放しにはしていない)、20年もの長きにわたって生き続けた。とはいえこの10年あまりは花を殆ど咲かせず、葉の数もだいぶ少なくなってしまっていたが、それでもなんとかお互い励ましあって(るように見えた)生き延びてきた。
それがついに昨年の夏、片方の鉢の最後の葉が枯れ、もう片方の鉢からももう新しい葉は生えてこなくなった。まあ20年も経てば寿命だろうからこれまで楽しませてくれてありがとうとあきらめたが、やはり寂しい。
そこで新たに1鉢活きの良さそうなものを買ってきて玄関に置いておいたら、今年になってあっという間に全部根本から腐って葉が落ちてしまった。残った球根を見てみるとどうやら灰色かび病にやられたらしい。かわいそうなことをした。

実は我が家の鉢植えの植物には、長年にわたって耐寒訓練を施してある。
長生きしたシクラメンも、毎年少しずつ寒さに慣れさせていた。
本来シクラメンは北アフリカから中近東・地中海沿岸に生息する植物である。夏の湿度は低く乾燥しており、冬は10℃以下には下がらない。それが夏は高温多湿、冬はこの辺りではマイナス10℃にまで下がるという日本の気候で過ごすのだから、かなり過酷と言ってもいいだろう。
原種のシクラメンは30〜40年生きるそうだが、改良された園芸種はせいぜい5年ほどと言われている。それが20年だからたいしたものである。
毎年秋になると翌日の最低気温をチェックして、徐々に一桁の気温に慣れさせ、このところはもうマイナス1℃位までは大丈夫になっていた。人間もそうだが、暑さには慣れないが寒さには慣れるものだ。

金のなる木という身も蓋もない名前で知られている多肉植物、クラッスラ・ポルツラケア(日本名はフチベニベンケイ)もうちにやって来てから25年になるが、毎年大きくなりまた株分けもしつつ、マイナス1℃までは耐えられるように訓練されている。
もともと乾燥や低温などの厳しい環境に適応した丈夫な植物であるそうだが、こちらも原産地は南アフリカなので本来寒さには弱い。それが冬場は温度が一桁の玄関で大丈夫になるのだから、適応能力はたいしたものだ。
そしてもう1鉢の20年選手、プリムラ・ポリアンサ。
サクラソウ科の育てやすい品種として人気のプリムラだが、暑さに弱く夏を越せないことも多いため、多年草なのに一年草扱いをされていることが多い。ヨーロッパ原産のためか寒さにはかなり強いそうだが、凍ると枯れてしまうので注意が必要だ。
こちらも耐寒訓練の結果冬でも元気である。日中は陽に当てておくが、夜は気温一桁の玄関でも平気だ。そしてなぜか一年中花が咲いている。

売られている植物の多くは、暖かいハウスの中で育てられている。文字通りの温室育ちなのだ。そのため購入後にいきなり厳しい環境下に置かれれば、耐えられないのは当然だろう。
耐寒訓練と称した作業は、正式には「順化」と呼ばれる。
「順化」とは、生物が異なる土地に移された場合にその場所の気候に適応すること、または同一地においても気候条件の変動に次第に適応すること、もしくは適応させることをいう。園芸の「順化」は、ハウスなどで育てた苗を植え付け前に徐々に低温や強光に合わせて、環境の変化に耐えるようにすることである。
心理学では「馴化」といって、ある刺激が繰り返し提示されることによって、その刺激に対する反応が徐々に見られなくなる現象を指すとのことだが、順化も馴化もあまり厳密に区別して言葉は使われていないようだ。
つまりは慣れである。なにごとも慣れは大事だ。この慣れるということに突出していたのが、人類という種なのではないか。どんな環境にもすぐに慣れる。ある意味鈍感。環境に対する生体の反応は時間の短い方から順に、反応・順応・順化・適応というそうだが、適応能力が高いというのは即ちすぐ慣れるということである。

シクラメンは人間のように逞しくはない。
高温多湿の夏も炎天下も寒く乾燥した冬も苦手な、大事に育てられた深窓の令嬢のようなものである。うちに来ていきなり寒い玄関に置かれたのでは、病気にもなるというものだ。
次にシクラメンを買う時は、少しずつゆっくりと新しい環境に慣らしていくことにする。
温室育ちでも地道に研鑽を積めば、強く逞しくなれるのだから。
耐寒訓練をすることは言うまでもない。


登場した用語:「適応」
→生物の進化を説明する適応主義。それに対して意義を唱えたスティーヴン・ジェイ・グールドが出した有名な例えが「盲目の時計職人」である。
今回のBGM:「CYBION 」by KALISIA
→フランスのプログレッシブ・デスメタルバンドが13年の歳月をかけて制作したアルバム。SF叙事詩の歌詞は「幼年期の終わり」といった内容だが、人類は何処に行ってもすぐ順化するだろうな。


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