173回 傷だらけの人生


空気が乾燥しているこの時期、ちょっと触れただけでも紙で手を切りやすい。鋭利な切り傷は小さくても痛く、手を洗うたびにしみてその存在を主張してくる。普通の絆創膏・バンドエイド・サビオといった、昔ながらの傷に貼る類のものは、濡らすと傷に触れるガーゼの部分に細菌が繁殖しやすく、感染のリスクが高くなるのであまり好きではない。
かといって何も貼らないでいると、周囲に発赤が生じたままで傷は閉じずいつまでも痛い。

この数十年で創傷治療のガイドラインは劇的に変化した。
私が子供だった昭和中頃では、まず傷には赤チンが鉄板であった。赤チンと言っても若い方は聞いたこともないだろう。赤チンというのは「赤いヨードチンキ」の通称で、正式名称は「マーキュロクロム液」という。昭和の家庭の常備薬として長く親しまれてきたこの赤チンは、実はメルブロミンという有機水銀化合物である。
毒性は低いということで消毒液として使われてきたが、平成29年に発効された水俣条約により、製品の水銀不使用・環境への排出抑制・管理の強化などに国を挙げて取り組むこととなった。赤チンは原材料生産の過程で水銀を含んだ廃液が出ることから、国内生産は1970年代に既に中止されていたのだが、原料の輸入だけは続けられていた。しかしこの条約が2020年12月31日から効力を発効したため、最後まで製造を続けていた会社も2020年12月25日で生産を終えた。

赤チンと同時期に使われ、比較的傷口が汚ない場合には、オキシドールと呼ばれる過酸化水素水がよく用いられた。
過酸化水素はヒドロキシラジカルの発生によって殺菌作用を要する。このフリーラジカルは、粘膜や血液に存在するカタラーゼで過酸化水素が分解される際に発生するのだが、傷口にしゅわしゅわと酸素の泡が立つと、あー消毒されているという実感がかなりあった。ただしこれはかなりしみる。相当しみる。怪我をしたという悲しみを加速させる。
その他にアクリノール液(水和物)という、目にも鮮やかな真っ黄色の消毒液もあった。色は派手だが、意外と殺菌作用は弱く殺菌というより静菌的に働く。

一般的に医療現場で消毒液として用いられているのは、アルコール系のエタノールやイソプロパノール、ヨード系のポピドンヨード、あとはクロルヘキシジンといったところだろう。
以前は手術前の術者は、ポピドンヨードを付けたブラシで手の皮が剥けるくらいゴシゴシと10分程度も洗わされたものだが、最近ではかえって手指皮膚の損傷が微生物数を増やすとの報告もあり、あまり擦らない方式に移行しているようだ。ポピドンヨードやクロルヘキシジンで充分揉み洗いした後、速乾性手指消毒液を用いるなどの改良法もあるが、決定打はなく施設によっても多少異なるらしい。
次亜塩素酸ナトリウムやクレゾールは、環境消毒・物品消毒には強力な殺菌力を発揮するが、手荒れが酷いなど侵襲的であるため、現在では非生体消毒のみで人体に直接用いることはない。

日常生活で生じる挫創や切創・裂創といったものから褥瘡に至るまで、現在主流となっているのは、まずは水道水の流水で良く洗うといった方法だ。
消毒液は細菌だけでなく皮膚の細胞自体にもダメージを与えてしまうため、かえって傷の治りが遅くなるというエビデンスがある。余程汚染された傷でない限り、塩素が含まれている上水道の水で創部を洗うことにより、たいがいの傷はきれいになる。
そしてこの数十年で劇的に変わったのがこの後だ。
かつて傷は早く乾かすのが良いとされ、創部から出る滲出液も積極的にガーゼで吸い取って乾かしていた。それが「傷は乾かすな」となったのだ。
創部にドレッシング材と呼ばれる創傷被覆材を貼付して湿潤環境を形成させることにより、理想的な創傷治癒の過程をお膳立てる。いってみれば人工的な痂皮(所謂かさぶた)と言って良い。創部の状態や大きさ深さ、そしてその治癒過程のどの段階にあるかによって、適切なドレッシング材を選択すれば、速やかに痛みも少なく傷を治すことができる。
ハイドロコロイド、ハイドロジェル、アルギン酸フォーム、キチンといったいずれも創部の湿潤環境を保持できるような素材を駆使したこれらのドレッシング材を、数日から1週間貼付しながら適宜貼り替えることにより、傷は早く美しく治るようになった。

小さな切創や挫創は、水道水で洗った後、透明で薄いポリウレタンフィルムを貼付しておくだけで、それ以上なにもしないでも治る。我が家にはこのフィルムが常備されているので、紙で手を切った時もすぐに貼っておくと、数日後には跡形もなく傷は治癒している。
本来トラウマとはギリシャ語で「傷」の意味である。体の傷も心の傷もトラウマであったのだが、フロイトが「心的外傷」の意味で使ってから、主に精神的な外傷として用いられるようになった。
心の傷も透明なフィルムで覆って、傷跡を残さず治せるようなドレッシング材が早く開発されることを願ってやまない。


登場した用語:ドレッシング材
→ドレッシング材は創部に感染がある場合は使用できない。これ大事。
今回のBGM:「Beautiful Trauma」by P!NK
→戦っていれば、人生傷だらけ。


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