194回 黒猫のジレンマ


ジンクスは信じない主義だ。
一般的によく言われているものだけでなく、自分の心の中だけで引っかかるようなことも、なるだけ、というか一切気にかけないように意識している。
例えばいつも靴を右足から履くのに、たまたま左足から履いた日に怪我をする。ああやっぱり右から履けばよかった、左は縁起が悪いのだ、とは思わない。そういうときはわざと続けて左から履いてみる。
ただでさえ不自由な世の中、とにかく自分を縛るようなことは、できるだけ避けたいのだ。

本来の意味でのジンクスは「縁起が悪いもの」だったはずだが、最近では良い意味でも使われることも多いそうだ。良い悪いを問わず、縁起を担ぐ対象となる全ての対象をジンクスというようになっているらしい。
英語のjinxの語源の由来ははっきりしないとのこと。一説に拠ると、古代ギリシャで魔術に使われた鳥の名前jugx(iynxともlynxともされていて正確には不明)に由来していると言われている。ギリシャ語でjugxと呼ばれるキツツキの一種のアリスイは、威嚇や求愛の際に首を180度回転させて真後ろに向けるため不吉とされた。このアリスイのギリシャ語であるjugxがjinxの由来と言われている。

英語圏では今でもjinxといえば悪いものと決まっているため、良い意味にも用いるのは、日本独特の用法だ。
縁起を担ぐというと良い意味であるが、これには「げんをかつぐ」という言い方もある。「げん」というのは縁起のことで、江戸時代に流行った逆さ言葉で「えんぎ」を「ぎえん」というようになり、それが「げん」になったというが、本当か。因みにげんを「験」と書くのは、元々は当て字だそうだ。
「げんかつぎ」には殆ど単なる語呂合わせだろうというものも多い。受験生が合格を祈ってトンカツを食べるだの、伊予柑が良い予感だの、やたらと食べ物が多いのは何故だ。タコが多幸なのはまだ良いとしても、オクトパス=机に置くと合格というのは、どう考えても無理が過ぎるだろう。

よく知られたジンクスには、数字にまつわるものが多い。
日本では忌数として4や9があげられている。4は死、9は苦を連想させるとして、ホテルの部屋番号として避けられることもある。
キリスト教圏で有名な忌数は、13と666だろう。666は新約聖書に登場する獣の数字として、悪魔を象徴するものとされる。13はキリストの最後の晩餐の人数であり、処刑された日が金曜日であると言われることから、13日の金曜日が不吉とされたというが、これも諸説あって何が本当の由来かは定かでない。いまではホラー映画の印象の方が強いかもしれない。

ジンクスやげんかつぎはどうして起こるのか。
その合理的な説明としては、「前後即因果の誤謬(post hoc ergo propter hoc)」という思考の混同が用いられる。
これは時系列としてある事象のあとに別の事象が起きたことを捉えて、前の事象が原因となって後の事象が起きたと判断してしまう誤りである。前後関係と因果関係は異なるものであるのに、因果を紐付けてしまうことにより、ジンクスが発生する。
時系列自体には因果関係はない。Aが起こった後にBが起こったとしても、AはBの原因とはならないのだが、往々にしてBが好ましくないことであった場合、BにならないようにAをやめるという方向に思考が向いてしまうのだ。
ジンクスの殆どはこれが原因と思われる。

暦や方角を気にしたりする人は多いが、あまりそれに囚われ過ぎると行動が不自由になるばかりか、強迫観念にもなりかねない。
黒猫は文化によっては、前を横切ると不吉だったり幸運だったりもする。コウモリは西欧では忌まれる生き物だが、日本や中国では幸運の象徴だ。
同じものでもその文化的背景によって良くなったり悪くなったりするというように、本来因果関係はないのである。しかし一旦そのように関連付ければ、思考も行動も引きずられてしまうため、結果もだいたい考えた通りになる。失敗しないようにと身構えるほど、失敗しやすくなるようなものだ。

なにかのせいにするのは簡単である。
トンカツを食べなかったから試験に落ちたと考えるのはやさしい。しかしそれは本当の原因から目を逸らすことにもなりかねない。実力が足りなかったから落ちたのなら、実力をもっとつければいい。トンカツを自分自身への言い訳にするならば、トンカツを食べて落ちたときに逃げ場がなくなる。トンカツのせいにしてはいけない。
いや、トンカツだけの問題ではない。ジンクスにこだわったりげんをかついだりすることによって、世界が小さくなってはいないだろうか。

なにも自分で狭めることはない。
人生は意外と長く、世界も思いの外広い。
多様な価値観を尊重しつつ、自分自身はできるだけ何事にも囚われずに生きていきたいものだと思っている。


登場した用語:「験」
→仏教用語で、修行や祈祷の効果という意味。縁起も仏教用語だが、験の方が古いので、やはり後から当てられたという説が正しそうだ。
今回のBGM:「黒猫は知っている」by SOZORO
→黒猫も白猫も、猫はみんな可愛い。


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