第142回 ゴッド・スピード・ユー


運転免許を取得したのは、大学生の頃だった。
大学のすぐ裏手にとってつけたように自動車教習所があり、新入生はもれなくそこに入学する。地方在住の方はよくご存知だろうが、公共交通網が発達していない地方では、クルマがないとかなり不便なのである。
歩いていける範囲の生活圏にはスーパーもコンビニもあったが、ちょっと離れるとどこに行くにもクルマが必要になる。そして大学生というのは兎角どこにでも行きたいものなのだ。なので当時の大学生はすぐに免許を取りに走った。

ここでひとつ確認しておくが、自動車ではなくクルマと呼びたい。
クルマは自動では動かない。今では自動運転の研究も進んで、そのうち自分で運転しなくても動いてくれるようになるかもしれないが、私が免許を取った時にはまだオートマ免許はなく、必然的にマニュアル運転を学ぶことになっていた。そしてここで、クルマは自動では動いてくれないことを学ぶのである。
思えばあれだけの大きさの金属の塊を動かすのだから、クルマの運転というものはかなり危険なのだ。はじめて車校(自動車学校の略称)でおっかなびっくりハンドルを握ったときは、本当に怖かった。アクセルをちょっと踏めば思ったよりスピードが出てしまうし、ハンドル操作も覚束ないので思うように曲がってくれない。だいいちマニュアルなのでクラッチの踏み具合がよくわからず、何度つなぎ損ねてエンジンを止めたことか。
それでも悪戦苦闘しながら次第にクルマの扱いに慣れていくと、今度は運転が楽しくなってくる。そうなると調子に乗ってスピードを上げたりして、教官に怒られたりするのだが、初心者が運転するクルマの助手席に座る教官も、命がけだろう。いくら助手席にもブレーキが設えてあるといっても、初心者は何をするかわからない。車校の教官に怒られた嫌な経験を語る人は多いが、怒られても仕方ないことをやっている場合も多い。教官になるには余程肝が座っていなければいけないと思う。

運転というのは大きな獣を飼い馴らしていくようなもので、こちらも相手の顔色を見ながらその扱いを身に付けていくしかない。
クルマも人間が作った道具の一つである。そして道具というのは言ってみれば身体の延長なのだ。私たちは道具を使うことで、本来の自分の身体を拡張する。より大きく、より速く、より遠くへ。
クルマの歴史の黎明期から既に、スピードを競う自動車レースは行われていた。人類は速さという魔物に魅了されていたのだ。そして19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリ、ベルエポックの時代は、それまで社会の陰に押し込められていた女性が華々しく活躍し始めた頃である。
ヴーヴ・クリコの創業者の家系に生まれたアンヌ・ドゥ・ロシュシュアール・ド・モンテマルトは、フランスで最初に運転免許を取得した女性であり、また最初にスピード違反の切符を切られた女性でもあった。史上初の女性レーサーとなったエレーヌ・ド・ジュイレン・ド・ニーヴェルトはロスチャイルド家の直系で、詩人のルネ・ヴィヴィアンと恋仲であったことでも有名である。
そして1958年にマリア・テレーザ・デ・フィリッピスが愛車のマセラッティ250Fを操り、史上初の女性F1ドライバーとなってから半世紀、いまではどんなレースでも女性ドライバーの活躍は当たり前となった。

クルマというものがスピードの出る金属の塊である以上、その運転には常に危険が伴う。相手は猛獣だ。全てコントロールできると過信するのは驕りである。
免許を取ったすぐ後に調子に乗って連れ合いのクルマを運転させてもらった。スポーツタイプのそのクルマは、パワーステアリングが付いていなかったのでハンドルがとても重い上に、アクセルバランスが非常に繊細であった。
教習所の大人しいクルマたちとは大違いだったのだが、それを考えずに運転しようとした自分は、発進してすぐの右折でハンドルのあまりの重さに曲がりきれず、また少し踏んだだけなのにアクセルが効いてスピードが出たためとても慌てて、そのまま道路脇の路石に左側のホイールをガリガリと擦りながら止まることとなった。
愛車を傷付けられた連れ合いがとても悲しそうで申し訳なく、反省した私はその後長年ペーパードライバーとなったのであった。

煽り運転や高齢者の事故など、このところ運転に関する悪いニュースが多い。スピードの快楽に溺れたり、自分の能力を過信することは、悲劇を招く。
クルマに乗るときは、運転の楽しさとともにその危険性を自覚しなければとあらためて思う。
飼い馴らせそうでいて手強い、このクルマという獣と上手くやっていくために。


登場した職業:自動車教習所の教官
→警視庁で捜査一課の刑事をしていたが、故郷に戻って家を継いだのでこの仕事をしているという人がいた。私が医学生と知ると、嬉々として殺人現場の話をしてくれたものだ。運転の気が散ってしょうがなかった。
今回のBGM:「Last Century Modern」by テイ・トウワ
→世紀末1999年発表のアルバム。20世紀はクルマの時代であった。

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