第82回 カメラを止めるな


医学部の大学生時代、写真部に所属していた。
もちろん当時はまだカメラはアナログである。大学入学以前から写真を撮るのは好きだったが、フィルムの現像や印画紙に焼くこともやってみたかったのだ。

写真部の暗室は、大学の部室が集まっている石造りの建物の中にあった。昔陸軍の兵舎だったというその赤煉瓦の建物は、夏は暑く冬は寒い。
ちなみに信州松本地方の冬は極寒である。真冬は家の中にある風呂の水が朝凍っていることもある。隙間風の吹く古いアパートに住んでいた同級生は、部屋の中でテントを張って寝袋で寝ていた(彼は山岳部)。
アナログ写真の知識がある方はご存知だと思うが、フィルムの現像から印画紙への焼き付け(プリント)の工程というのは、化学反応によって行われる。そして化学反応というのは温度に依存するものなのである。写真の工程においても、現像液・停止液・定着液の温度がとても重要なのだが、暗室の室温が室温なのでなかなかに苦労を強いられた。部屋が寒いのですぐに冷めてしまうのだ。溶液の温度が適温に保たれている時間がとても短いので、しょっちゅう温度計で測っては調整をしなければならない。それをさぼるとなかなか現像できない。つまり印画紙に像が現れてこない。まだかなーと悠長に和紙の紙漉きのようにバットを揺らしている場合ではないのだ。
そういった苦難を乗り越え、自分が撮った写真を現像し大きく引き延ばしてプリントできると、たいした腕でなくても良い作品に思えたものである。

当時の写真部の顧問は、医学部の名物教授であった。その教授はいろんな意味で“名物”と言える存在だったのだが、中でも写真部に於ける伝説の「テツ焼き」はいまだに写真部 OB・OG達の間で語り草となっている。
毎年秋の大学祭に写真部も展示を行う。そこに必ず教授が撮影した写真を展示することになっている。プリントまで済ませて渡してくれるなら何の問題もない。それならパネルに貼るだけなのだから。
しかし実際はそんな簡単なことではなく、教授から渡されたフィルムの指定されたコマを、部員がプリントしなければならない。それがまともな写真ならさほど苦労はせずとも焼けるだろう。しかしテツ焼きを侮ってはいけない。かなり適当に指定されたその写真は、何が撮りたいのかわからないような構図だったり、そもそもピントが合っていなかったりといった、非常に難易度の高いものだった。
新入部員は「教授が何を写したかったのか心眼で見ろ」とかいう先輩の厳しい指導のもと、なんとかまともに見られる程度に苦心惨憺して印画紙にプリントする。その過程で、覆い焼きやスポッティング(埃などが写ってしまっているのを絵の具で修正する)などの様々な技術を会得していくのである。
こうしてみると、テツ焼きとは写真技術向上のために欠かせない修行だったのだと思わざるを得ない。ちなみにテツ焼きの「テツ」はその教授の名前からきている。

父親はカメラというメカは好きだったが、結婚するまで撮ること自体にはあまり興味がなかった。一方母親は銀行員時代、有志が作っていた写真クラブで撮影会まで催すほど入れ込んでいた。新婚旅行で父親はまかせておけと自慢気にドイツ製のカメラを持っていったが、帰ってきて現像したら全部ピンボケだったらしい。父親は亡くなるまで、母親にそのことで嫌味を言われていた。
いまはデジカメはおろか、写真を撮るのはスマホという人が殆どだろう。プリントすることもなく、データのままで保存している場合も多いに違いない。フィルムの存在も知らない世代にとっては、現像するまで撮影できているかわからないアナログの写真なんて、恐ろしくて想像できないのではないか。
写してすぐに確認できるデジタル写真は安心だが、暗室の赤い照明の下でドキドキしながら待つあの時間も、なかなかに楽しい経験だった。

少女を被写体として撮影した写真集は沢山ある。
しかし小説やアートと同じく写真も、何を撮るかよりもどう撮るかということが大事なのだと思う。
少女を撮ることなく少女性があふれ出しているような、そんな写真が撮りたいものだ。


登場し(なかっ)た写真家:サラ・ムーン
→独特の表現は、今ならフォトショで手軽に作れてしまうかもしれないが、その感性までは真似できるものではない。
今回のBGM:「スポーツと気晴らし」エリック・サティ作曲 アルド・チッコリーニ演奏
→マン・レイに「眼を持った唯一の音楽家」と称されたサティは、20世紀という写真の時代を象徴するかのように、被写体として各年代の肖像写真を残している。

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