290回 Charley Horse


子供の頃からよく足が攣った。所謂こむら返りというやつである。
寝ている時のみならず、ただ立っているだけでも、突然ヤツは襲ってくる。激痛に悶絶しながらひたすら足を引っ張って伸ばしたり揉んだり、しばし唸りながら格闘するが、もう大丈夫かなと油断してちょっと足先を動かした途端、更なる試練に襲われる。子供の時は本当に毎日攣っていたような気がするが、そんなに運動していた訳でもないのに何故だろう。
大人になってからは流石に頻度は減ったが、それでも旅行に出掛けてちょっと歩き過ぎたかなという時など、夜ホテルでひとり自分の足を抱えて転がり回る羽目になる。冷えはもちろん大敵だが、いくら気をつけていてもなる時はなるのだ。
そしてヤツに襲われた時に一番頼りになる頼もしい助っ人が、ある漢方薬である。

こむら返り、正式には腓腹筋痙攣という。
「こむら」というのは漢字で「腓」と書き、ふくらはぎにある筋肉の名前だ。下腿三頭筋と総称されるふくらはぎの筋肉は、内側にあるヒラメ筋と、それを覆うように存在する腓腹筋から成るが、腓腹筋は上端で内側頭と外側頭という二股に分かれるので、合わせて下腿三頭筋と呼ばれる。腓腹筋は、立位を保持するのみならず、歩く時や立ち上がる時など、常に働いている筋肉だ。筋肉は働けば働く程、硬くなり血流も悪くなる。
こむら返りは、この腓腹筋が不随意に持続的に攣縮し、足の底屈と足趾の屈曲を生じて、激しい痛みが出現する現象である。筋肉を支配する運動神経の興奮性が一時的に増すことが発症の原因とされているが、実は全ての機序は明らかではなく、疼痛の発生原因もよくわかっていないらしい。とにかく縮んで痛いのだから伸ばしてなんとかしようと、自分で足を力一杯背屈させたりするが、一度攣縮が起こってしまうとちょっとやそっとでは治らない。
このような生理的なこむら返りは、健康な人の9割が経験しているという。そして年齢とともに発生頻度は上昇し、毎日起こる人も結構いるというのだから厄介である。

こむら返りの原因として、激しい運動、逆に運動不足、脱水や冷え等が挙げられるが、元凶となるのはマグネシウム不足だと言われている。マグネシウムの必要量としては300mg/日とされているにもかかわらず、実際の摂取量は250mg/日にとどまっているので、我々は慢性的な摂取不足の状態にある。
食事からの摂取不足の他にも、下痢・嘔吐・発汗、激しい運動に伴うマグネシウム消費の増大や、利尿剤に依るマグネシウムの体外への喪失、そして脱水や冷えは末梢循環不全を来してマグネシウム不足を悪化させる。
マグネシウムは、収縮した筋肉を弛緩させる働きを持つ。そのためマグネシウムが不足すると、筋肉は弛緩しにくくなるのだ。また筋肉に存在する過収縮を予防するセンサーである筋紡錘は、マグネシウム不足だと機能が低下するので、ますます弛緩しにくくなる。
マグネシウムは、不足しやすい栄養素である。多く含まれている食品というと植物性では、玄米などの精製されていない穀類、大豆などの豆類、海藻、ナッツ、動物性では干しエビが挙げられる。なかでも海藻には大量に含まれているが、海藻を毎日多く食べるということは難しいと思われる。意外にも野菜にはあまり含まれていないので、とにかく上記のどれかをせっせと食べることにしたい。

予防にはストレッチが良いとされるこむら返りだが、では発症してしまったらどうするか。
もちろん収縮した筋肉を弛緩させるべくストレッチをするのは効果があるのだが、とにかく痛いのだ。この痛みをなんとかしてほしい。
このときに絶大な効果を発揮するのが、芍薬甘草湯という漢方薬である。
漢方薬というと、ある程度の期間内服を続けることで効果が現れるのが普通である。ところがこの芍薬甘草湯に限っては、即効性がある。飲んで数分で効果が出るというのは、本当に感動的でさえあるのだ。しょっちゅうこむら返りを起こす私は、この漢方薬を自宅はもちろん、職場にも、持ち歩く鞄の中にも、常備している。持っていないと不安でしょうがない。
芍薬甘草湯は、歴史のある漢方薬だ。後漢末(西暦200年位)に張仲景によって著された、中国医学四大経典の一つとされる「傷寒論」という書物がある。日本でも医学経典として長く支持されてきた重要な書物であるが、芍薬甘草湯はこの「傷寒論」に既に記載されている。その名の通り芍薬と甘草という2種類の成分からなるシンプルな処方で、証(体質)にはこだわらず色々な痛みに効果がある薬として重宝されてきた。

では芍薬甘草湯は、何故こむら返りに効果があるのか。
運動神経から筋肉に収縮しなさいという指令が伝わると、筋肉組織の細胞の中にカルシウムイオンが流入し、カリウムイオンが流出する。この時一時的に神経から過剰な指令が伝わると、それがトリガーとなり筋肉は過収縮を起こしてしまう。通常ならすぐに筋紡錘などの働きで弛緩するのだが、マグネシウム不足だと弛緩できずに過収縮が続く。おそらく普通の収縮であればストレッチでも解除できるのであろうが、過度に収縮した筋肉はその程度では弛緩しない。ずっと異常な収縮が続いているのだから、それは痛い。
さてここで、芍薬甘草湯の効果機序だ。芍薬に含まれるペオニフロニンという物質は、末梢血管拡張作用により末梢循環血流量を増加させると共に、筋肉細胞にカルシウムイオンが流入するのを抑制する。そして甘草に含まれるグリチルリチン酸は、カリウムイオンの細胞外への流出を促進するため、2つの作用により神経筋シナプスのアセチルコリン受容体が抑制され、結果として筋肉は弛緩しやすくなる。また芍薬には鎮痛作用があるが、甘草と組み合わせることでその作用が増強されるそうだ。
それにしてもこの漢方薬の効果発現の素早さには、いつも驚かされる。痛みに悶絶しながらなんとか内服すると、ガチガチに収縮したふくらはぎの筋肉が数分以内に速やかにほぐれていくのだ。もちろん効果の現れ方には個人差があるから、もっと長くかかる人もいるだろう。でもとにかく幾つかの研究でこむら返りに関する芍薬甘草湯のエビデンスはしっかり確認されている。

ひとつ気をつけなければいけないのは、芍薬甘草湯は通常の漢方薬のように継続して定期的に内服する薬ではないということだ。あくまでも頓服として使用する薬なのである。
続けて飲んでいると何がいけないかというと、甘草に含まれるグリチルリチン酸の副作用として、偽アルドステロン症が起こる可能性があるからである。偽アルドステロン症は、低カリウム血症・浮腫・高血圧や、ミオパチーなどを引き起こす。高度の低カリウム血症の場合、致死的な不整脈を生じる可能性もあるため、注意が必要だ。
これは甘草が成分に含まれる全ての漢方薬も同様なのだが、甘草による偽アルドステロン症は、不思議なことに容量依存性に出現するわけではない。副作用が出る人はほんの少し飲んだだけでも出るし、出ない人はずっと続けて飲んでいても出ない。
念のためにも、芍薬甘草湯はあくまで頓服として上手に使用することにして、長期間継続して内服するのは避けた方が良いだろう。

山登りをする人にとって「68番」は必需品と聞いたことがある。
ツムラの漢方薬には全て番号がふられていて、「68番」というのは芍薬甘草湯の番号である。ただでさえ登山は筋肉を使うし、山で足が攣ったら生命に関わる場合もあるため、お守りとしてこの「68番」を持っているのだという。
もちろんツムラだけでなくクラシエからもこの芍薬甘草湯は発売されている。医師に処方してもらうのが一番いいが、薬局やドラッグストアでも各社から発売されているので、足が攣りやすい人は一度試してみるといいと思う。こむら返りだけでなく、腰痛や腹痛など各種痛みに効果がある漢方薬なので、用意しておくと結構便利なのだ。

何度経験してもこむら返りのあの激痛には慣れることはない。
海藻を食べて、よくストレッチと適度な運動をして、身体を冷やさないように注意して、それでも突然襲ってくるヤツと戦うために、これからも芍薬甘草湯は常に携えていたい。


登場した元素:マグネシウム
→医師ならばマグネシウムと聞いてまず思い浮かぶのは、酸化マグネシウムという下剤だろう。「カマ」と呼ばれて重宝されてきたこの下剤、長期にわたって処方されている患者さんは、高マグネシウム血症を来していることがあるので、定期的な血液検査が必要である。
今回のBGM:「音ヲ孕ム」by 睡蓮
→元SOFT BALLET藤井麻輝が、芍薬というヴォーカリストと共に創り上げた、エレクトロニカ・ゴスの世界。痛みと共に。


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