302回 朋有り、遠方より来たる


16年ぶりに高校時代からの親友と会った。
これまでも連絡は取り合っていたのだが、実際に会うことが出来たのは実に16年越しになってしまった。とんとん拍子に話が進み、彼女が我が家にやってきてみると、長い空白などなんのその、高校時代と同じノリで話が進む進む。
考えてみれば高校生だったのは、40年以上も前のことだ。恐ろしいことである。高校の3年間なんて、これまでの人生のたった1/20だ。小学校、中学校、高校と、永遠に続くかに思える学校生活は、実は人生に於けるほんの一部でしかない。
しかしまだ十数年しか生きていない子供にとっては、生き方を左右する重大な時期であることは間違いないのだ。その時期に出会った人間や経験した出来事は、その後の人生に大きな影響を及ぼしかねない。

私が入学したのは、都立白鴎高等学校という共学の公立高校である。
白鴎高校は、昔の東京府立第一高等女学校だ。東京初の「府立高等女学校」として明治21年(1888年)に創立された。その後昭和23年に「東京都立第一女子新制高等学校」となり、翌24年に男女共学となった。そして昭和25年に「東京都立白鴎高等学校」になっている。平成10年には、東京都内初の公立の中高一貫教育校となった。
なんといっても創立当時から受け継がれている教育理念は「開拓精神」だ。明治時代に初めて公立の女学校に入学した女生徒たちは、今では考えられないほど当時全てを「開拓」していかねばならなかっただろう。
NHKの朝の連続ドラマ「おていちゃん」のモデルになった女優の沢村貞子も、この学校の出身である。名脇役としてその存在感が印象的だった沢村は、一本筋の通った肌骨のある女優であったが、下町育ちの逞しさと共にこの「開拓精神」を胸に秘めていたのかもしれない。
他にも婦人の友社と自由学園を創立し日本の女性ジャーナリストの草分けとなった羽仁もと子、戦後の歌壇に大きな影響を与えた歌人の1人である葛原妙子、これまた戦後の女流文学を代表する作家である芝木好子、近いところではかの「ベルサイユのばら」の作者の池田理代子も、卒業生だ。

元の「府立第一高女」の自負もあってか、私が入学した当時、共学でもとにかく女子のパワーが強かった。まあ言ってみれば、気が強い女子が多かったのかもしれない。
白鴎の女子は気が強いと言われて有名なエピソードがある。普通校章といえば、襟にちょこんととめるせいぜい1~2cm程度のものだろう。ところが白鴎高校の校章は、5cmは優にあるかという巨大なものだった(現在はデザインそのままに随分と小さくなってしまったようで残念)。
修学旅行で京都に行った時のこと。同じ時期に他の高校も沢山訪れていたが、新京極ではガラの悪い他校の男子生徒が校章をカツアゲしていると評判だった。実際白鴎生もそのカツアゲにあったらしいが、白鴎の女生徒は「これ高いんだから駄目!」と絶対に渡さなかったそうだ。
創立当初から女子の制服は、特徴的なボレロ型だった。男子は詰襟なのでごく普通だが、女子は一目見ればわかる他にはないデザインだったので、デカい校章と相まってどこにいても白鴎生だとわかった。平成17年に中高一貫校となった際にこの制服も一新されたが、女子はボレロ型を踏襲したすっきりしたシルエットとなっている。男子はいまだに詰襟だそうだ。
令和3年度からはスカートとスラックスを選べるようになったそうで、良いことである。私の頃はふくらはぎの中程まである長いプリーツスカートだったので、到底活動的とは言えなかった。階段を一段跳びで登った時にスカートの裾を踏ん付け、前半分端から端までベルト部分の下が横に裂けてしまったことがあり、母親にどえらく怒られたが、スラックスなら気にすることもなく飛んだり跳ねたりできるだろう。

それにしても驚くほど細かいことは覚えていないものだ。40年以上も経っていれば仕方ない。
今思い出したが、高校時代応援団などというものにも入っていた。一体何を応援していたのかとんと記憶にないが、学ランを着て頭に鉢巻を巻き屋上で練習をしたことはなんとなく記憶にある。そういえば写真も残っていたかもしれない。
古い校舎だったので、放課後掃除当番で箒で掃いていたらヤモリがいたこともある。アルモンドタワーという名の時計台が象徴的な存在だったが、当時でもだいぶ老朽化していたのだろう。ある朝この時計台の巨大な時計がいきなり地上に落下した。早朝でまだ誰も登校していなかったのが幸いだったが、落ちた場所が自転車置き場だったのでもう少し遅かったら大変なことになっていた。
そういうことは覚えていても、親しい友人以外の同級生の名前は殆ど思い出せないし、先生の名前も朧げである。なのに高校三年生の冬休みの宿題である漢詩「長恨歌」は、まだ結構暗唱できる。
記憶というのは不思議なものである。

ところで小中高おしなべて、同窓会というものが全くと言っていいほど開催されない。
風の噂でずっと前に中学の同窓会があったというのを聞いたが、住所は随分前に変わっているので連絡が届かなかった。
この「同窓会」という言葉だが、同じ学校の卒業生はいつ卒業したかを問わず全て含むそうだ。確かに「同窓」というのは同じ学校に集った仲間という意味なので、同期の場合は「第◯回生同窓会」となるのか。私は同期が集まる会だけを同窓会と呼んでいたが、ところによっては同期の会は「同級会」と呼ぶとか。「クラス会」という場合もあるとのことで、クラス会では同じクラスだけではないのだろうかと思うがどうなのだろう。
とにかくこの同期が集まる同窓会、過去に一度だけ開催されたことがある。
久しぶりに旧友たちや先生方に会えると喜び勇んで参加したわけだが、結果的に酷く落胆する羽目になった。一次会は良かった。様々な分野で活躍している同期生たちの話を聞いたり、お互いの近況報告をしたり、世話になった先生のお元気な姿を見ることができたりして、楽しかったのは確かだ。
問題は二次会だった。会場のホテルを宿泊でもとってあり帰る必要がなかったので、仲の良い友人たちを見送った後、二次会にも参加した。しかしそこにはまず親しい人が全然いなかった上に、同じクラスの人が殆どいなかった。そして二次会で参加者が盛り上がった話というのは、私が全く預かり知らぬ当時の恋愛関係の生々しいあれこれであった。
自分が過ごしていた高校生活とは全く別の世界が、並行して同じ時間に存在していたという紛れもない事実を突きつけられ、衝撃でしばらく立ち直れなかった。

先日尋ねてきた親友と会ったのは、この同窓会の一次会ぶりだったのだ。
高校時代に仲が良かった友人たちとは、読んだ本や音楽について語り合ったり論争をしたりしていた覚えしかなく、そこに恋バナなどは存在しなかった。今思えば、我々の方こそ異端だったのだろう。
普通の高校生ではなかった私と親友は、それぞれ普通とは異なる大人になり、普通とは少し違った人生を辿っている。しかしそもそも普通などというものはどこにもないのかもしれない。どんな人でもその人だけの唯一無二の人生を歩んでいるのだから。
それでも私は、高校の教室で恋愛とは無縁のいっぷう変わった話題を夢中になって語り合った親友と、いまなお同じ熱量で話ができることをとても嬉しく思っている。
三つ子の魂百まで。100歳になっても異端でいたい。


登場した話題:読んだ本
→BLの源流、ヤオイの始祖と言われる栗本薫著『真夜中の天使』。上巻を読了した私は、興奮冷めやらず「これ読んで!」と早速親友に貸した。アルバイト禁止でお小遣いも少ない高校生にとって、単行本は高価だ。そうしたら彼女はなんと私の誕生日に、下巻をプレゼントしてくれた。あの感激は今も忘れていない。
今回のBGM:「HEROES」by デヴィッド・ボウイ
→1978年12月11日、ボウイの2度目の来日である日本武道館。高校2年2学期の期末試験の前日に行きましたよ。スタンドから遠く見下ろしたボウイは、ただただ格好良かったな。ご想像の通り、期末試験の成績は散々でした。


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