296回 前髪よ、永遠なれ


かつて前髪は武装だった。
ロリィタなるもの前髪を上げてはならじ、という掟でもあるが如く、少女たちは己の前髪を死守していた。ある有名なロリィタ・モデルの前髪は、どんな突風でも一筋の乱れもないとの噂がまことしとやかに囁かれ、実際彼女の眉毛を見た人は誰もいない。

前髪は「作る」ものである。人間の髪の毛は360°全方向に向いて生えているので、そのまま伸ばせば顔に垂れ下がってくる。それを横に分けたり後ろに流したり、縛ったり切ったりするわけだ。
その際、顔にかかる部分のフロントの髪を真横に真っ直ぐに切り揃える。これがいわゆる「前髪ぱっつん」である。ロリィタの文脈に於ける前髪ぱっつんは、眉毛と目の丁度中間で切り揃えることになっている。なので眉毛は見えないのだ。最近は「シースルーバング」(バングというのは前髪を指す美容室用語)などという、梳いてパラパラと薄くした前髪も流行っているが、前髪ぱっつんの場合の前髪は分厚く重い。
前髪ぱっつんにした時他の部分はどうなっているのか。これはロリィタでも意外とバリエーションがあり、ショートボブ(おかっぱですね)、ロングストレート、ゆるふわウェーブから縦ロール(!)までさまざまである。髪の色も金髪から黒髪と自由だ。
それでも前髪だけは譲れないという人は多いだろう。普段はもっとカジュアルな髪型にしているが、ロリィタの時だけはわざわざ前髪ウィッグを装着してぱっつんにする人もいる。そう、ぱっつん前髪のウィッグまであるのである。
髪の毛は日々伸びるものなので、目にかかるようになったら切らなければならない。その度に前髪を切るだけの目的で美容院に行くことはなかなかできないから、必然として自分で切ることになる。これがまた素人には難しい。こっちが少し長いかななどと切り揃えていくと、いつしか思っていたより短くなってしまっていることがまま起こり得る。「前髪を切り過ぎた」という忸怩たる思いを、前髪ぱっつんの人は何度も経験していると思われる。
眉毛と目の間といったらほんの数センチだ。その微妙な隙間に前髪の先端をキッパリと維持すること、それは少女にとっては何より重要な決意だったに違いない。

平安時代の日本人の髪型といえば、絵巻物などでお馴染みの垂髪である。身長より長く伸ばしたストレートヘアだ。もちろん最初からこうなわけではなく、まず子供は3歳くらいまでは男女ともに髪を全部剃った坊主頭だった。これは丈夫な髪を生やすためだそうだ。3歳になると「髪置きの儀」により髪を伸ばし始める。
額の髪が目にかかるようになると「目指し」と呼んだ。9歳頃までに男女ともに毛先を切り揃える「髪削ぎ」という儀式をする。清少納言は『枕草子』の中で、肩で切り揃えた髪型で額の前髪が目にかかる「目指し」の姿を「うつくしきもの」とあげているそうだが、今で言うところの「おかっぱ」である。この「目指し」はあくまでも子供の髪型である。
そして女性は16歳になると、6月16日に「鬢削ぎ(びんそぎ)」をする。これは男性の元服にあたる一種の成人式である。今で言うところの「姫カット」にするのだが、長さは胸の辺りと比較的長めの位置でカットする。前屈みになった時に顔にはらりとサイドの髪がかかるのが儚げで奥ゆかしいとされたからだとか。後ろから見ると艶やかな長い黒髪、前から見ると姫カットで小顔効果という、絶妙な髪型である。

江戸時代になると、頭頂部を丸く剃った男児の髪型が河童に似ていると言うことから、この髪型を「おかっぱ」と呼ぶようになる。そして次第に頭頂部を剃らない女児の髪型となった。成人女性は髪を長く伸ばして結うのが普通であったので、おかっぱはあくまでも子供の髪型である。
明治時代、文明開化が起こって男性の髪が短くなっても、まだ女性は髪を結っていた。女性の髪が短くなるのは大正時代、そうモガ=モダンガールになってからだ。世界的にみても歴史的に女性の髪は長いのが常識だった。それが第一次世界大戦のフランス人の従軍看護師が髪を切ったことで、髪を短く切る「断髪」が始まった。髪型の歴史的大転換である。
欧米では戦後の1920年代、狂乱のジャズエイジにカールしたボブが大流行して、フラッパーと呼ばれた女性たちが、流行の最先端となる。ショートヘアに膝丈のタイトなドレス、タバコにアルコールと、女性の社会進出と足並みを揃えて彼女たちは街を闊歩した。
この頃のアイコンといえば、黒髪ショートボブのルイーズ・ブルックスだろう。1950年代から60年代にかけてボンデージ・モデルとして活躍したベティ・ペイジは黒髪ロングだが、前髪はぱっつんである。ただルイーズにしろベティにしろ、欧米のボブは同じ前髪ぱっつんでも、眉毛は出すのがお約束だ。いずれも前髪はかなり短い。これが眉毛を隠す日本の前髪ぱっつんとの一番の違いである。

私も長い間前髪ぱっつんを死守してきた。眉毛を見せるなんてもってのほかだった。
全体の髪の長さが長かったり短かったりしても、前髪だけは眉毛と目の間の長さで切り揃えることは変わらなかった。実は中学生の時に一度だけ横分けにしたことがあるのだが、「鬼太郎」と言われたのですぐやめた。断っておくが「ゲゲゲの鬼太郎」は大好きだ。ただ髪型が鬼太郎は、女子中学生には少々酷である。
50歳を過ぎた頃から段々こだわりがなくなってきて、前髪の長さにはあまり頓着しなくなった。自分で切り揃えた前髪が「オン・ザ・眉毛」であろうと「オーバー・ザ・眉毛」であろうと、どうせすぐ伸びるし鬱陶しくなくていいやと思うようになったのだ。ただそうなると眉毛が丸見えになる。もとより自眉は半分ほどしかないので、描かざるを得ない。アイブロウライナーで描くのだが、これがなかなか難しい。眉の形というのは、自眉、骨格、流行の三拍子揃ったバランスが大切なのだ。
というわけで毎朝眉と格闘することになり、上手に描けると一日気持ちが良い。

前髪ぱっつんは、幼児性の現れと言われることが多い。前髪など作らず大人ならキッパリと額を出せと。
いいではないか、幾つになっても少女のように厚い前髪をぱっつんと切り揃え、理不尽な世の中に毅然と立ち向かっても。
ただでさえ少女で在ることが難しい社会だ。前髪くらい好きにさせてくれ。
ロリィタでなくても、心の中に少女が住む全ての人の前髪に幸あれと願う。


登場した髪型:ボブ
→よく「クレオパトラみたい」と言われるボブだが、エジプト人やギリシャ人の髪質はストレートではなくカーリーなので、一見ストレートに見えるあの髪型は細かい編み込みを施したカツラだそうだ。ストレートボブのクレオパトラのイメージは、エリザベス・テイラー主演の映画「クレオパトラ」の影響が大きい。
今回のBGM:「彗星図鑑」by 吉澤嘉代子
→「キルキルキルミ」の歌詞、「前髪を切る キル キル キルミー」が耳について離れない。因みに彼女のアルバムで一番好きなのは「屋根裏獣」。


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