第97回 サウンド・オブ・サイレンス


趣味には、それにはまったら最後というような濃い「沼」が色々あるが、なかでも昔から有名なのはオーディオ沼だろう。
いまでは音楽はストリーミングでスマホのBluetoothで聴くという人も多いので、本格的なオーディオセットどころか、かつて一斉を風靡したミニコンポも持ってない知らないというのが一般的だ。
しかしいつの時代にもマニアというものはいるものである。
あることが趣味ですと公言できるまでには、おおよそ100万円程度は最初につぎ込まなければならないとはよく言われるが、オーディオの場合単価が高い上にアイテムの種類も多い。本格的になると家の設計から始めるそうだ。
まさにはまったら底なし沼のように二度と出られない。

20歳のひと夏、秋葉原のオーディオショップでアルバイトをした。
今はきれいに整備されてしまったが、秋葉原駅の目の前にあったラジオ会館というアーケード街の中の老舗オーディオショップである。
仕事の内容は、店頭でカシオトーンを弾きながら売るというデモンストレーション販売である。安価な電子楽器の出始めの頃だったため、結構よく売れて店側には感謝された。
お昼の休憩時、その店の一番奥にあった防音室に置かれた超高級オーディオの音を聴かせてもらうことができた。自分の好きなLPを持っていってかけるのだが、ここで初めてオーディオ機器によってこんなにも音が違うのだということを体感させてもらった。
すっかりオーディオの世界に魅了された私は、そのひと夏のバイト代全てをつぎ込んで、本格的な(といってもささやかだが)自分用のオーディオセットを揃えることにした。
予算の範囲でまかなえる価格帯の、いろんなメーカーやブランドを聴き比べる。もちろん音自体の再性能の良し悪しもあり、それはほぼ価格に比例するのだが、それ以上に聴き手の好みというものがオーディオ選びには大きく関係するということがよくわかった。
どういうジャンルの音楽をよく聴くのか、アナログの楽器か打ち込み主体か、ヴォーカルをしっかり出したいのか、ソリッドな音かマイルドな音か、限りなくその「聴きたい音」に則して機器を選んでいくことになるのだ。それは反対に考えれば、自分はどのような音が好きなのか、どんな音が聴きたいのかということを問い直す作業でもある。
メーカーやブランドによって異なるだけでなく、ターンテーブルにCDプレイヤー、アンプにスピーカー、その組み合わせによっても音は変わってくる。毎日休み時間に試聴させてもらって、夏休みが終わってバイトを辞めるときに、無事そのバイト代で一式購入することができた。
いまでもその時購入したコーラルのスピーカーは、良い音を響かせてくれている。

時を経て、連れ合いもオーディオ好きであったため、今度はもう少しステージの上がったオーディオ機器を選ぶことになった。
地方都市にも老舗のオーディオショップがあり、年に2回ほど広い会場を借りてオーディオフェアなるものを開催する。そこには名の知れたブランドが勢ぞろいして、普段は聴けないような高級機器の視聴もできたりするので、マニアたちが目をきらめかせて集って来る。
管球アンプのやわらかく暖かい音色を好むファンも多いが、我々はもっとクリアでソリッドな音が好みであるため、そこで出会ったデジタルアンプに一目(一聴)惚れしてしまった。デジタルアンプなんてと甘く見ていたが、そのアンプはフィードフォワード機能により学習するお利口さんであり、その後長らく我が家のオーディオ界に君臨した。
爆音と一口で言うが、大きくすればいいと言うものではない。通常のアンプでは大きくなればなるほどどうしても音が歪んで来るので、聴き辛くなる。それがこのアンプでは、どれほど大きくしても単に大きくなるだけで全く歪まないというのを初めて経験して、とても感激した。
ほぼ同時期に購入したスピーカーは、新潟のバックヤードビルダーのコンクリート製バックロードホーンという構造のもので、これがまた良い音を鳴らしてくれる。
ミステリ作家山口雅也の短編小説「音のかたち」には、オイロダインというかのヒットラーが演説に使って絶大な効果を発揮したと言う伝説のスピーカーが登場する。音というものが人に及ぼす影響を描いた傑作だ。

少女のウィスパーヴォイスもフルオーケストラもしっかり鳴らしてくれる今のオーディオシステムに満足しているが、上を見えばキリがないようで…。
沼だから、下か。


登場したスピーカー:オイロダイン
→ドイツのジーメンス社製で1980年代に生産は終了している。劇場型の巨大スピーカーを所有している人は日本にはさすがにいないだろうと思ったら、一人いた。さすがマニアである。
今回のBGM:「Hotel California」by Eagles
→確か超高級オーディオで試聴した中の1枚がこれだったと思う。


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