第58回 採血奇譚


採血をされたことがないという人は少ないだろう。
針を刺されるのが苦手、血を見るのが苦手、血管が出にくいので苦手などなど、採血が恐怖ということはよく耳にする。中には献血が趣味という人もいて、そういう人は採血自体は特になんでもないだろうが、される側ではなく採血する側の事情というのもあるのだ。

医師になったばかりの頃、とにかく採血が苦手だった。する側の話だ。初心者マークの医者なんてものは、まあ足手まといになるばかりで使い物にならない。当時救急センターに週2日研修に行かせてもらっていたのだが、ただでさえ迅速な対応を必要とする現場なので、色々と迷惑をかけた。実際先生方にもベテランの看護師さん達にもかなりしぼられたものだ。おかげでその後はいっぱしとはいえないまでもほどほどな程度の医者になれたのだから、感謝してもしきれない。
採血にしろなんにしろ、手技というのは慣れが全てだ。数をこなさなければ上手にはなれない。しかし何事にも初めてということがある。どんな手術の達人であっても初めての手術の時から完璧にできるわけではない。同様に採血も最初の頃は失敗続きで、血管を突き破ってしまったり、そもそも血管をかすりもしなかったりと散々だった。散々なのは患者さんの方で、随分と痛い思いをさせてしまったと申し訳なく思う。
採血にある程度慣れると、次には点滴を入れるという修行が待っている。これは採血よりさらに難度が高い所業なので、苦労の連続だった。ただでさえ患者さん達は具合が悪いから入院しているので、血管も元気ではない。太くて丈夫な血管がない患者さんの腕に、点滴のサーフローと呼ばれる留置針をなんとか入れなければならない。点滴は何日も継続することが多いため、その間血管内にしっかり入っていなければいけないのだ。
患者さんのか細い腕の手首の内側の幽けき血管に、看護長指導のもとに点滴を入れなけれならなかった時には、緊張のあまり手に力が入り過ぎて、駆血帯のチューブを切ってしまった。ゴムも劣化していたと思うのだが、その時の「せんせー、困るー」と嘆息した師長の声と、怯えた患者さんの表情は今でも忘れられない。そりゃあ患者さん、怖かったよね、すみません。
それから幾星霜、今では特別気負うこともなく淡々と点滴も入れられるようになった。採血にしろ点滴にしろ、その極意は如何に良い血管を見つけられるかということに尽きる。

それにしても初めて他人に針を刺すという経験は誰でも緊張するものだ。
法医学教室の助手の時に学生実習の監督をさせられたのだが、その課題で採血があった。殆どの学生にとっては初めての採血である。毎年毎年阿鼻叫喚の風景が繰り広げられるので、監督するこちらとしても気が抜けない。みんなビクビクしながら刺すため、手が震えてあらぬ方向に刺す輩や刺した瞬間自分で驚いて抜いてしまう輩が出てくる。そして運良く血管に入って採血できても、駆血帯を外す前に針を抜いてしまい、勢いよく流血の惨事となることもままある。とにかくそういう可愛げのある時期を経て、医者は皆他人に平気で針やらメスやらを入れられるようになるのだ。
医者よりも採血や点滴をする頻度の高い看護師の中には、他人に針を刺すのは平気でありながら、自分が刺されるのは大嫌いという人が結構いる。医療従事者も健康診断のための採血やインフルエンザの予防接種で針を刺される機会というのは定期的にあるのだが、ある看護師の暴れようと言ったら凄かった。若い女性の看護師だったのだが、まあ逃げる逃げる。4人がかりで押さえつけてやっとという状態で、聞くところによると大学病院の歯科にかかった時には網を掛けられたそうである。子供用に保定用の網が用意してあるというのにも驚いたが、大人に使ったのも初めてと呆れられたそうで、さもありなん。

今でも他人の手を見ると無意識のうちに、どの血管なら点滴が入りやすいかと考えてしまう。立派な職業病と言えよう。


登場した医療器具:駆血帯
→今ではワンタッチ式のものも多いが、当時はゴムのチューブが一般的で、劣化していれば誰がやっても切れる。はず。
今回のBGM:「The Time of the Oath」by Helloween
→言わずと知れたドイツのパワーメタルバンド。マイケル・キスクのハイトーン・ヴォーカルが有名だが、アンディ・デリスの芸達者なところも好きだ。ライヴで流血はしないと思う。

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