第75回 スプーン一杯の幸せ


本業は医者なので、薬の処方をする。
薬はできるだけ飲まないほうがいいとか、クセになるから飲まないとか、とかく薬に対して抵抗感を覚える人はかなりの数存在する。
しかし本来薬というのは人類の叡智の結晶のようなものなので、必要な時に必要なものを必要なだけ処方して飲めば、楽になるのだ。抗生剤のように細菌を殺すというわかりやすい効能の薬以外でも、身体の中の足りない物質を補ったり、多すぎる物質を抑制したりと、薬で調節できることは多い。
時々「薬が効かなくなった」と言ってくる患者さんがいるが、その場合の多くは「効かなくなった」のではなく「症状が強くなった」ということが多い。それまでの量では抑えきれないくらい症状の方が悪くなったということだ。そうすると薬を増量した方がいいのか薬の種類を変えた方がいいのか、検討を要する事態になる。患者さんからの丁寧な聞き取りが大事な局面である。

精神科の場合、この薬の処方というやつが少々他の科と異なる。いや、かなり特殊と言ってもよいと思う。
例えば内科で、高血圧の場合降圧剤を処方する。降圧剤の効き目は個人によってや病態によって異なるだろうが、血圧を下げるという効果は変わらない。人によって飲んだら血圧が上がったということにはならない。
しかし精神科の薬の場合、同じ薬を同じ症状に対して処方したとしても、効き方は個人によって異なるのだ。極端な話、抑うつ状態に対して抗うつ剤を投与したら、かえって抑うつが酷くなってしまったということもあり得るのだ。鎮静を狙ったはずが不穏が増強したりすることもある。
また同じ投与量でも、高齢者には過鎮静になってしまうことは理解できるとして、年齢が若くても片方は全く効かずもう片方は眠気が強すぎて駄目という場合もある。

薬というのは両刃の剣であるため、効果と副作用が表裏一体であることが多い。これは反対に考えると、上手に処方すれば副作用と思われたものを効果的に使えるということだ。眠気が出るのであれば、朝内服するのではなく夕に飲めば、睡眠導入剤のような効果が得られることもある。
また精神科の薬はごく微量でその効果が劇的に変わってくることも多い。それを予想して非常に微量ずつ調整を行うのだが、1mg、1,5mg、2mgと増量して効果が出てきたため、よしと2.5mgに上げたところ、いきなり眠気が強くなったりふらつきが出たりすることがある。
そこら辺のさじ加減がとても難しいのだが、薬はそれこそ飲んでみなければわからない。こういう作用がありますよと言われていても、個人の身体の代謝によっても効果や副作用の出現度合いは変わってくる。なので客観的な所見だけでなく、患者さんから聞き取る「飲み心地」のフィードバックが欠かせないのだ。

さじ加減の前にまず大事なのは、見立てである。
高血圧は誰が診断しても高血圧だ。血圧計で測れば良い。しかし精神科疾患の場合、数値で計測できる症状はほぼないと言っても良い。そのため医者の見立てが非常に重要になる。
だいぶ知られてきた症例だが、「うつなんです」と言ってくる患者さんが躁病だったという例は結構ある。患者にとっては、躁状態の時の方がやる気が出て気分が良い(周囲はとても大変)。普通の状態になると相対的には気分が沈んだ感じがするためそう訴えてくるわけだが、それを真に受けて抗うつ剤なんか処方してしまうと、躁転してとんでもないことになる。
それを見抜くのが見立てということなのだが、なかなか大変なのだよ。

症状を見立てて、薬をさじ加減する。
毎日頭を捻って処方しているので、くれぐれも用法用量を守って服用しましょう。


登場した薬:睡眠導入剤
→かつて「睡眠薬」と呼ばれた薬はバルビツール系の麻酔薬のようなものなので、副作用も強く危険だったが、現在処方されている睡眠導入剤はそれとは全く作用機序が異なり、より安全に使用できるものになっている。つい今でも「眠剤」と言ってしまうのだが。
今回のBGM:「終楽章」 by 倉橋ヨエコ
→8年間の活動期間のみできっぱり”廃業”してしまった彼女だが、残された作品は今尚その創作者としての切実さが胸を打つ。「処方箋」も切ないが、最後に録音されたという「輪舞曲」が一番好き。

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