第78回 弘法も筆の誤り


字を書くのが上手くない。有り体に言えば、字が下手だ。

最近は手書きで書くことは少なくはなったが、それでもまだ自筆で書く機会は結構ある。その中でもどうしても書かざるを得ないのは自分の名前だ。
「高柳」という苗字は縦の線が多いので、比較的バランスが取りやすい。問題は名前である。カタカナと漢字が同居する私の名前は、なかなかに書きにくい。それでも「高柳」と「子」の間にちんまりと「カヨ」を収めれば、なんとか格好が付く。
旧姓の頃は往生した。「牧野」という苗字だったのだが、この漢字はやたらと斜めの線が多い上に、「野」の難易度が高い。書くとどうしても苗字があちらこちら向いてとっ散らかった印象になってしまうのに加え、その後にこれまたバラエティに富んだ内容の名前が、取ってつけたように呆然として続く。
結婚する時にお互いどちらの姓にしてもよかったのだが、「高柳」の方が断然書きやすいというその一点で迷わず姓を改めた。

小学生の頃は御多分に洩れず習字を習っていた。しかし何年やってもいっこうに上達しない。母親は習字の先生になろうと思ってたというほど字が上手いため、何か字を書く度に下手だ下手だといちいち貶される。それですっかり字を書くのに嫌気がさしてしまった。
それでも当時はまだPCはなかったので、何もかも自筆で書かざるを得ない。上手くないのならせめて読みやすい字を書こうと心がけたものだ。
それから幾星霜。丁寧に書いていたつもりが、最近いつの間にか字がかなり雑になっていることに気付いた。思うにこれは、前に勤めていた病院が手書きのカルテだったために、その膨大な量(精神科のカルテは他の科と比べて書くべきことが多い)のカルテを書きなぐっていたせいで、次第に乱暴な字になってしまったのだと反省する。
いまはカルテも電子カルテで記載できるし、このnoteもメールも殆どの文章はキーボードで打っているので、自筆で書く機会は格段に減っているのだが、それでも何か手書きで書く度に、ああ自分は字が下手だなあと実感してしまうのだ。

以前名古屋に行った時に、古今にわたる日本と中国の著名な書家の書を一堂に集めた展覧会が開催されていたので、興味を惹かれて観に行ったことがある。
会場に入って気付いたのだが、観覧者のほぼ全員が書道を嗜んでいる人たちで、それもかなりのキャリアがあると思われる方々であった。当然展示されている書家についても詳しく、私には解読できない達筆もすらすらと読みながら感想を述べあっている。
こちらのような素人はもう恐れ入りましたと言うしかないのだが、それでも良い字というのはわかるものだなと、変なところで感心した。
なかでもやはり王羲之の書は素晴らしかった。書聖と称される王羲之の『蘭亭序』。彼の真筆は戦乱で全て失われたとされていて、この書道史上最も有名な書は現在は模写でしか残っていない。それでもこの行書の粋と言える書の端正で理知的な字体には、素人でも惚れ惚れするような品格というものが感じられた。
他にも名だたる書家の作品が膨大な数展示されていて、その規模にも圧倒されたのだが、面白かったのは良寛の書である。新潟の良寛所縁の寺でも観たことがある彼の書は、一癖も二癖もある個性的な字体で、一筋縄ではいかない良寛の性格をよく表していた。

かつて女子高生の丸文字というものが流行ったことがあったが、あのような可愛らしい字体よりも、端正で正確な楷書の方に少女の清々しさを感ずるのだが、如何なものだろう。
自分はと言えば、これからもきっと字を書く度に、ああ下手だなあと落ち込むに違いない。
それでも金釘流と言われようが、楷書で丁寧に書くことを心がけていきたい。もう少し名前は上手く書けないものかと頭をかかえるのだけど。


登場した書家:王羲之
→清の乾隆帝は彼の書を愛するあまり、『快雪時晴帳』という書に自ら「神」と書き込んだ。往年の2ちゃんねらーか。
今回のBGM:「MASSEDUCATION」by St.Vincent
→ラバースーツをまといギターを下げてすっくと立つ彼女も隷書のようで格好が良いが、殆どピアノだけで歌い上げるこのアルバムは、一気に書き上げる行書を思わせ軽やかでとても素敵。

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