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ある朝の日記

以前ザビエが話してくれた退行のテーマ、朝から思い出している。

表向きには、夫がマレーシアに一時滞在していて不在なのを利用して、たまたまそのタイミングで母の調子が思わしくないのが心配で、寝泊まりはしないものの、外で予定がないときは一日の大半を実家で過ごしている、なんてことにしていたここ数ヶ月なわけだけど。実は、子であるわたしが、実家という母親の子宮に還っているような、そんな時間だったんだなあ、と。今朝の坂爪さんの文章がそう思うきっかけになった。

生命エネルギー補給のような時間。この家族の中では永遠に子ども(というポジション)であることを思い出す時間。親、特に母親というわたしにとっての源流とその引力の強さ(月冥王星合をこれでもかというほど感じた時間)。実家という空間は、今の私にとって子宮のような場所に取って代わったんだなあ、なんて思っている。

一緒に住んでいたときは、あたかも自分の生活時間帯で独立しているなんて思って暮らしていたけれど、この家に保護されて滋養補給して、外の世界に出て行っていたんだなあ。

昨日母に、『お母さんのコンデションと、自分のコンデションが比例している〜。』と話したら、『そんなの昔からいつもそうだよ〜。娘が落ち込んでる様子だと、こちらも調子悪くなるんだから。』と言っていた。ううむ、言葉がない。

全然関係ないけど、いやそうでもないけど、ここのところ密にコミュニケーション取ってる年が少しばかり下の友人が、少し前まではお父さんへの敵意がむき出しで、でもそれが実はしんどくて、って話をよくしてくれていた。一言では語り尽くせない事情や背景がもちろんある中で。そんな彼が、2回のコンステレーションを経て、家族への視点がゴロリと変わっている今に、このわたしが驚きを隠せない。むしろ感動している。もちろん、それもわたしが彼を見たいように見ているに過ぎないのだけれど。そんなマジックのような瞬間に出くわしてしまうから、追求し続けたいのかも。あの摩訶不思議なワークを。

ついに咲いた。なかなか開かないなあと思いつつ、気づかないうちに咲いてた。実家の百合。

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