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ターシャのこと(2)

私の母、ターシャは昭和初期の生まれだ。子供時代は戦争により世の中が急激に変化し、父セバスチャンとは四つ違いだったが、父のその頃よりもだいぶ物資が滞り、紙がなくて新聞の開いた真ん中を切り取って学校へ持っていったと言っていた。
ターシャの父は戦争に駆り出され、母は女手ひとつでターシャとその兄と妹の3人の子を荒物屋を営みながら育てたそうだ。物のないこの時代に20代でワーママでワンオペ育児をするしかなかったというのは過酷であったと思う。ターシャの兄は後継ということで大学へ行かせたが、真ん中のターシャは中学までしか行かせられないと母に言われ、中卒で奉公に出されたという。住み込みで外国人家庭でナニーのようなことをしたり、病院で看護助手のような仕事をしていたそうだ。
幼少期のターシャは父が戦争に行く前はあちこち転々と住居が変わったそうで、(ターシャ父は出征前は商船会社勤務でなかなかのイケメンだった。優しくて晩年とても可愛がってもらって大好きな祖父だった)学校が変わるたびに子供ながらもいろんな嫌な思いもしたらしい。だが、根っからの明るさと丈夫だったのもあって、ターシャと遊ばせたいという親が多かったらしく、友達は多かったようだ。誰にでも話しかける所はおそらくここで培われたのではないかと思う。
ターシャは私によく言っていた。

相手の気持ちを変えようとしても難しいの。自分の感じ方を変えるんだよ。

子供の頃は、ふーん、と聞き流していたけれど、この言葉はやがて様々な場面で思い出された。
人とのコミュニケーションや学校や職場で考え方が違ったりして傷つくことがあった時、この言葉を思い出す。
この人はこういう人なのだ、と丸ごと受け入れて、もしくはさらりと流して、自分の受け取り方を変え、切り口変えて違うところから俯瞰してみたりする。
そうすると相手に対してイライラしたり悲しくなることから回避できるのだ。
母ターシャが晩年までひとつだけネガティブなことをいっていたことがあった。ターシャが働き始め、戦争が終わった頃、ターシャが行くのを我慢しろと言われた高校に妹は行かせてもらえたのだ。真ん中の私だけ貧乏くじ引いたのよ。とこのことだけはずっと恨み節を言うのを聞いた。でも口にすれど、すぐに開き直り、学校は行けなかったけど、私はおとうさんっていうすごい人と結婚できたし、こう見えて私楽しいこと見つけるの得意なのよ。あれとあれをああしたらこうなるんじゃないかって考えた通りに縫い物ができたりするとね、ターシャさん、すごい!って思うの。
ミセスポジティブ。ターシャの自己肯定感の安定は、多分あの過酷で理不尽な時代にもめげずに生きてきたことによって今の幸せを噛み締めることでできていたように思う。そして、セバスチャンラブ❤️ここにターシャの幸せはあったのだ。

セバスチャンは実はターシャの同級生の兄だった。私の叔母にあたるこの人は若くして病に倒れて亡くなってしまう。セバスチャンは母を早くに亡くし、妹を亡くし、やがて父も病に倒れ、残された歳の離れた妹弟を育てて行かなければいけない重責と過酷な仕事で疲れきっていた。2人の間にどんなやりとりがあったかは定かではないが、セバスチャンがターシャの明るさに救われたというのは本当だったと思う。

2人が結婚して、兄が生まれた後、丈夫だったターシャに異変が起こる。産後の肥立ちが悪かったのか、病気がちですぐ寝込むようになってしまったのだ。セバスチャンは当時まだ珍しかった家電を買い、家事の負担をへらし、体の弱いターシャを専業主婦にした分、せっせと働いた。ターシャも自分が働けない分、元気になってきてからも服も食事も手作りできるものは作り、セバスチャンも自分で修繕できるものは道具でも家電でも雨漏りでも壁塗りでも棚づくりでも自分でやった。
2人ともさほど贅沢もせず、つましくも日々を楽しんでいたように思う。
セバスチャンは外食が苦手なので、出先でどうしてもという時以外ターシャの作ったご飯しか食べなかったし、ターシャもセバスチャンのことを立てていた。一本気で理屈っぽいセバスチャンが落とす雷は子供の私でも怖くて、ターシャは、ほら、おとうさんに怒られる前に○○しなさい、とよく言っていた。
根本的に夫婦仲良しなので、2人に言いくるめられると私は言い返すことができなかった。おとうさんにこれやってもらったの、とか昔△△ちゃん(セバスチャンの妹でターシャの同級生)がお兄ちゃんをすごく大好きで自慢してていいなぁ、って思ってた、とか、子供の前でも平気で惚気るようなことを言った。そのくらいターシャにとってセバスチャンはオールマイティでスペシャルな存在だったのだ。

私が中学生になる頃にはターシャもだいぶ体調がよくなり、寝込むことがなくなった。この頃からターシャはよく近所の友人と旅行に出かけるようになった。セバスチャンは外食が苦手なこともあり、あまり旅行に行こうとはしなかったが、帰宅後、旅行先であった様々な出来事をよどみなく感嘆しながら話すターシャをセバスチャンはふんふん、と聞いていた。(たぶん丁度いい具合に流していた部分もあったと思う)
ターシャは行く先々の景色にいちいち感動し、語らずにはいられない。
おかあさん、この頃丈夫になってよかったよ。そうセバスチャンがつぶやいたことがあった。私が小学生の頃は帰ってくると大体ベッドに寝ていた。だから生き生きと喋りまくるターシャに安堵していたんだと思う。

やがて私は思春期になると、この両親を鬱陶しく感じるようになった。
心配症でお節介な母と厳格な父。年上の兄は既に家を出て暮らしていたので、細々と干渉される矛先は私だった。親になってみてわかったが、心配、という気持ちが干渉を引き起こす。私がされて嫌だったはずなのに、私も子供たちに干渉してしまった。
頭でわかっていてもなかなか子離れできず、私の場合、ここに更年期がやってきたのだ。ターシャもあの頃こんなだっだのかな、と数十年経って気がつくのだった。

私が働くようになって、結婚して家を離れると、ターシャのかまう対象は孫たちになった。元来セバスチャンもターシャも子供大好き。特に小さい頃は遊びに行くと孫たちにご馳走をつくったり、一緒に遊んだり、体力的に疲れたようだが、孫たちの前では2人とも顔がほころんでいた。うちの子たちが小さい頃のセバスチャンやターシャと一緒の写真は今でも宝物だ。孫たちを見つめる目は優しく温かで、かしこまっていないごちゃごちゃした日常の写真の中のみんなの表情ががとても愛おしい。

元気に老後を過ごしていたターシャに癌が見つかったのは孫たちが大きくなり、前ほど実家に頻繁には行かなくなったころのことだった。

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