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本日記『推し、燃ゆ』

🚨途中に【⚠️ネタバレ注意⚠️】があります。

こんばんは。ぴろです。

今回は宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読みました。著者は私と同世代。あらすじ等何も読まずに読み始め、“推し”という言葉に、勝手にポップで明るいイメージを抱いていましたが、想像よりずっと重くて暗い話でした。でもなぜかラストは前向きで明るい印象を受けました。主人公のあかりは推しを推すことだけで生きていて、それ以外はーーー家も学校もバイトもーーーあまりうまくいっていない。「普通」ができない生きづらさを抱えている女の子。

推しを「背骨」と表現したところが絶妙でした。誰でも「背骨」がないと、ぐにゃりと曲がって立っていられない。あかりは推しがいないと、生きていられない。私は自分の背骨を他人に(それも心を通わせたり独り占めしたりすることが到底叶わないアイドルや芸能人に)委ねるのが怖くて、自分の背骨は自分でコントロールできるものにしていたいという気持ちがあります。私にも推しはいるけれど背骨ではなくて、あかりみたいに命を賭ける勢いで推すわけでも決してなくて、出演作品を観るとか、SNSをフォローするとか、待ち受けにするとか、ときどきファンクラブに入ってみたりするくらい。何万円、何十万円もお金を積んでグッズを買うとかブログを書くとかそういうことはしません。そこまで特定の人に対してハマったことがないから、生活のすべてを推しに捧げるあかりを見て、私も一度くらいどっぷり推しの沼にハマって浸かってみたいなあと少しだけ思ったり。

いろんな推し方があるなかで、あかりのスタンスは「解釈し続ける」こと。程度は違えど、このスタンスにはすごく共感できました。「解釈し続ける」。言い得て妙だなぁ、と。
私が誰かを推すとき、顔を見ただけでキャーとか握手したいとか恋をするとかそういうものではなくて、究極「その人になりたい」と思うんです。その人が素敵だと思うものを素敵だと思いたい、面白いと思うものを面白いと思いたい、嫌だと思うものを私も嫌だと思いたい。要は解釈一致したい。「憧れ」に近いのかもしれないですね。ちょっと別の話ですが、私の好きな人や大切な人に対する行動として、「共有」があることとも繋がっているような気がするようなしないような。大切な人には私のことを全部知ってほしいし、できることなら全部知りたい。日々の小さなできごとを共有したい…という気持ち。

ここから【⚠️ネタバレ注意⚠️】かも

あかりは物語の後半で推しという背骨を失います。ばら撒いた綿棒を、自分のお骨を拾うように拾っていく。現実では自分のお骨は拾えない。でもあかりにはそれができる。きっとあかりは一度死んで、また新しい背骨を作りあげていくんだ。しっかりと立てるまで、這いつくばるように生きていくんだ。ああ、だからきっとラストでは、前向きで明るい印象を受けたんだ。背骨がばらばらになってなくなっても、また拾って作り上げればいいってことを、あかりは教えてくれたんだ。

【⚠️ネタバレ注意⚠️】終わり

なんだか纏まらない文章だったけれど、あかりのように激しくて衝動的な生き方、私は好きです。行き過ぎるとあとで自分の首を絞めることにもなるけれど、それも含めて自分の好きなように生きていたいと私も思います。小説を読んでいつも湧いてくるのは、生きることに対する希望です。だから私は本を読む。読み続ける。
きっと本を読むことが、私の「背骨」なのかもしれない。

おやすみなさい。

ぴろ


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