私達は報われるべきだ

タイトルの「達」に含まれない方々が存在する。
存在してることすら浅ましい。
なのに、今日ものうのうと生き、なんなら正しい私達よりも順風満帆に過ごしているまである。
何故に。
「達」に含まれない方々よりも明らかに苦しんで、もがいて生きてきたはずの私達が何故こんな仕打ちの中で生きなければならないのか。
人としての在り方、道徳心、過去から現在に至るまで経験してきた苦境、これら全てにおいて私達が下回っているはずがない。
しかも、その方々から受ける悪影響というのは遅効性の質も持っていると思われる。
時が経って目が覚めていけばいくほど、その時の経験の苦味が毒のように心の中を巡っていく。

近い未来に、私達の今の苦しみを彼らが同様に受ける日はくるのだろうか。
人の思惑に弄ばれ、動かしようのない環境に嘆き、そして長く鬱々しい日々を過ごす。
そんな日々が彼らに訪れれば良いのに。

この願いの問題点は、おそらく叶わない、というところにある。
彼らのような人間ほど世渡りが上手く、心身を病むこともなく、その図太い精神で苦難をかわしていくのだ。
元々天から与えられてしまっている人としての能力の差があるのだろうか。
それとも妬み嫉みの感情が私達にあるとでも言いたいのか(誰が)。

彼らのような人々を妬んだり、羨んだりなどしたことは一度たりとも無い。
彼らのような下等生物に私達のような上等な人間が羨みの感情を持つことなどありえない。
だとしたら彼らに対するこの恨みのような執着、執着のような恨みはなぜ消えないのか。 
本来であれば出会わずに生きていき、得られるはずだったその時間分の幸せを掴み損ねたからであろうか。
私達が今持っているこの負の感情は、過去に手に入れられるはずだったものに対する感情なのかもしれない。

その日から地続きの後悔が今もなお心の中を占めていて、失われたものへの悲しみが止まらない。
では、本来得られるはずだった幸せはこれからの未来においては得られないものなのだろうか。
それは違う、と私達は私達自身に向けて宣言する。
彼らが未来でどうなろうと、幸せであろうと不幸であろうと知ったことではない。
が、確実に言えることは私達を迎える未来は明るい。
絶対に。
凹んでいた時期があまりにも長い、その分の幸せは必ず返ってくる。
まだまだ苦難の時期は続くかもしれない。
無味乾燥とした日々が続くかもしれない。
だが、いつかその日々が途切れ、笑顔で過ごしている私達の姿を私は想像できる。
その日まで、保護でも医者の手でもなんでも借りながら、なんとか生き延びよう。

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