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私にとっての演劇

何を求めて演劇を観るのかは、それはそうとして。

また別に「私にとっての演劇」という思いがある。私が過ごしたい時間と空間のこと。

演劇の観客になりたい人は、会場となる空間に足を運び、上演時間とその前後自分の五感と思考以外をそこに預ける。
時代が時代なのでオンライン配信やオンラインで作品が完成する作品もあるけれど、あえて私はそれを演劇とは呼ばない。

演劇は、現実をすぐ近くに置いたまま上演を見る。演劇には限界がある。会場は大抵借物だし決まりがある。空間にも時間に限りがある。
その中で成し遂げられるものだから美しい。

観客も、座席が狭くて窮屈に感じたり、終演の時間が気になって時計を確認したくなったりする。
空間も時間も縛られて鑑賞する。

上演中、作品を提供する側は、観客のそれらを自由に選んで提供することができる。
会場によって決まりがあるが、その会場も選べる。どれくらいの時間かけて制作するかも、何日の何時に開演するかも、どれくらいの上演時間にするかも。会場を選べるので予想外のことが起こらなければ気温も選べるし、もちろん座席の豪華さも。

会場に関係ないところでだって、鑑賞予約の取り方も、どんな紙質のチケットにするのかチケットレスにするのかも。
誰に脚本を書いてもらうか、誰に演出をしてもらうか、誰に出演してもらうか、誰に様々なデザインをしてもらうか、誰に必要なものを作ってもらうか。

なんだって選べる。お金さえあれば。

お金さえあれば、なんだって選べるのだから、すべて意識的に選んでほしい。
意図的とまではいかなくても、全ては選んだから起こっているのだと認識してほしい。

それが叶った状態で、時間を使って身体を空間に預けたい。

お金がなくて、選べる選択肢が少ないのだとしても、選べる選択肢が少ない状態で観客の前で上演をすることを選んだんだと自覚すれば、
どれが一番大事で、何を大切にしたいのかが明確になり、それを中心とした時間と空間づくりができるはずだと思う。

喫茶店づくりと同じだと思う。
違いは訪れる人が自由にお喋りできるかどうかくらい。自由にお喋りができない喫茶店は殆ど演劇の上演時間と一緒じゃないかな。(提供メニューは作品の内容に含まれているとして)

意識的な不明瞭さは、受け手の感じ方に委ねる心地よいものだけれど
無意識的なものは、あまりにもその周辺を意識的に明確に整えられている必要がある。

公演作りは一つの世界の構築で、観客はその世界に生活の延長上でおじゃまするのだ。
現実の生活とは絶対的に別物だけれど、パラレルワールドなので何かをきっかけに繋がるかもしれない世界。
観客が会場に辿り着いたときに繋がるかもしれない。

生活の一部になるかもしれない、人生の転換点になるかもしれない。その責任をもって演劇を上演したいし、
その期待をもって演劇を観たい。

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