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何を求めて演劇を観るのか

初めて演劇に触れてからもう10年以上も経ってしまった。

始めた頃は何もかもが格好いいなと思っていた。
大きな声で台詞を発するのも格好いいし、
照明にあたる役者も格好いいし、
大きな音は格好いいし、
何もない舞台も、何かがある舞台も格好いいし、
公演に向けて練習することも格好いいし、
カーテンコールも輝いていて格好良かった。

今も、格好いいなと思っている。
けれど、格好いいだけじゃないなとも思っている。

物語の面白さだけじゃ、
役者の器用さだけじゃ、
劇場の豪華さだけじゃ、
空っぽの演劇のように思う。

物語を楽しんでもいいし、役者を楽しんでもいいし、劇場を楽しんでもいい、どんな楽しみ方もできるから、演劇は寛容なのだけれど、
だけ、じゃ成り立たない。

だけ、じゃ演劇になれない。

演劇、やダンスやその他、舞台を眺め鑑賞する観客がいる作品で、総合芸術と呼ばれる類のものたちは、
一つ以上のセクションがあり、大抵はそれぞれに責任者である作家やデザイナーや職人がいる。

家を作るようなもので、理想を語る一人だけでは安全で快適で美しい建物を建てるのは難しい。

少人数で頑張ることは仲良くなりやすいし、意思疎通がしやすいけれど、責任者が不在になり崩壊の危険性があったり、一人一人の責任が過積載になる可能性が高い。

無理をして作られた家には、思い出が詰まっていて、作った本人たちは一生忘れない。
一生忘れない家はいくつも作ることはとても大変なので、一生忘れない家になるのは3軒くらいが限度かなと思う。

招待された知人やご近所さんは、思い出を見る。素人なのに頑張ったねと素晴らしいと言える証を探す。そして努力に感動する。
努力は美しいので、努力の表現の仕方にファンがつくこともある。
また作って欲しいとお話ししたりする。努力の結晶をまた見たい。努力の擬似体験を求めたりする。

観客が求めるのは何か。
観客に求めるのは何か。

公演を観た人が出演者を褒めた。素敵な舞台セットねと褒めた。
終演した後満足感があったとしても、さてそれは演劇を観たと言っていいのだろうか。

2時間一つの絵画の前にいた人が、素敵な額縁でした。と言ったら心底ガッカリしてしまわないだろうか。
描かれた女性の微笑みに惹かれたので、ポストカードが欲しいと言ったら、
ファンになってもらえたんだと嬉しくも思うけれど、額縁も女性の微笑みも作品を形作る一部の存在でしかない。

観る側の自由な作品の楽しみ方がある。全くもってそれぞれで良いことなのだけれど、それはもう作品を見ているとは言えない。
フェチであったりマニアであったりファンであるだけ。

観客が求めるものが、フェチやマニアやファン向けのものとするならば、それを作る人が多くなるのは仕方がないが、
果たしてそれだけでいいのだろうか。

私は、演劇を観るということは、世界を見るものだと思っている。
地球の中のちっぽけな劇場となる会場の中の舞台の前の観客席に座っているだけで、自分の居る場所の狭さを知り、世界の一部を垣間見れる体験だと思っている。
私はその体験を求めて演劇を観るし、その体験のためには上演公演のバランスが保たれていてクリアに世界を見ることができる状態であるべきだと思うので、そうあれるように仕事をしている。
だけれど全ての演劇人が、そのために演劇をしているわけではないことも知ってはいるつもりで。

演劇の正解はきっとないのだけれど、観劇の正解もきっとないのだけれど、
演劇を観る人がもっと増えてくれるといいなぁ。と思っていて、そのためにどうするのがいいのかずっと考えています。

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