見出し画像

小説:妹の腰にいた男

 あたしがその夜のその時間に目が覚めたのはトイレに行きたくなったからだったけど、二階のトイレを使わずに一階に下りたのはそこから物音が聞こえたからだった。
 布団から上体を起こし、画面の光に目をくらませながらスマホを確認する。さて、おおよそ物音の立たない時間にごとごとと聞こえてきたのはなぜだろう?
 お父さんかお母さんが喉が渇いたとかでお茶を飲んでるという可能性はもちろんある。けど、過去に同じ状況でそう思って台所に行ったら違ったということが二回あった。
 あたしは後者の可能性に引っ張られて階段を下りる。その人物に気付かれないように、靴下を履いた足をそろりそろりと床に付ける。床とキスするみたいに足を下ろせ、と言っていたのは誰だったっけ。どこかで観た映画の登場人物かな? 思い出す前にあたしは廊下に着地する。キスはあたしが唯一したことのある性行為だ。キスって性行為に含めていいよね? あたしは馬鹿正直に自分の経験を思い出しながら廊下を歩く。明かりが付いていないから、何かに躓いたり踏ん付けたりしないように気を付けなきゃいけない。お母さんが積んでいる通販で買った食品の箱とか、お父さんが居間からはみ出させたままにしてる座布団の端っことか。けどまあ、十九年間歩き回り続けてきた家だ。さっきの階段だって踏み外さなかったし、普段通りの感覚で歩けば大丈夫。
 正面に明かりが見える。目を凝らす。台所の入り口からちらりと姿が見えて、その瞬間あたしの予想は的中している。
 開けっ放しのドアの枠に手を付いて、あたしはシンクの下の扉を開けて、しゃがみながら中に頭を突っ込んでいる後姿を眺める。グレーのパーカーと黒いパンツの間に腰が見えていて、そこには男の正面顔が彫られている。
 背を向けているのはあたしの妹で、こちらをじっと見ているのは知らない男だ。短髪に髭の生えた白人っぽい顔立ちで、やや顎を突き出してあたしのことを見下そうとしている。あたしはそれを見下ろしている。
 顔を周りにはどこかわからない外国の言語や、やたらに鬱蒼とした模様が描かれている。
 こんな男が、妹の、夏希の腰に居座っているとは知らなかった。あたしは声をかける。
「お金ならそこにはないよ」
 夏希の頭がガツンと天井に衝突して「あ痛」という声が短く反響する。
 もたもたと体を引きずり出し、しゃがんだままひょこひょこと足踏みしてあたしの方に向けられた顔は笑っている。すごく夏希っぽい仕草を久しぶりに見たなあと思って、一瞬あたしも笑いそうになる。そういう素直さは、今出したくないから笑わないけど。
「お姉ちゃんいたんだ。ビックリするじゃん」
 後ろのシンクに片手を付きながら立ち上がった夏希は、『ような気がする』なんて言えるレベルじゃなく、前より痩せている。
「いや、起こしちゃったね。ごめんごめん」と、自分の足元に散らばった鍋やらフライパンやらを見ながら言う。ずり下がっていたパンツの腰を引っ張る。
「ああ、あと……散らかしちゃってごめんね。片付けとくから、ちゃんと」
 夏希はずっと笑顔を作っている。そういう小さくて表面的な術でしか自分を守ることができないんだ、この子は。
「……すぐ帰るから、大丈夫だから、ごめんね」
 と言って、夏希は何をするでもなく視線を彷徨わせて自分の指を自分で触っている。あたしは言う。
「とりあえず、あたしトイレ行ってくるから。戻ってくるまでそれ片付けといて」
足元を指差してやると、夏希は「……あ、うん。わかった」と、了承したという言葉を発する。
あたしは廊下を戻ってトイレに入って便座に座って用を足しながら、右隣りの壁を見ている。壁には、家族写真を中央に配置した一枚のカレンダーが貼ってある。あたしと夏希が小学生の時の写真で、お父さんとお母さんも後ろで一緒に写っている。当時、お母さんが写真屋さんに頼んで作ってもらったものだ。作ったはいいけど、カレンダーは貰い物がたくさんあって、既に家中に飾られていたから、空いていたトイレの壁に貼られたのだ。「せっかくよく撮れてるから」と言ってお母さんは嬉しそうに画鋲で壁に止めた。家族旅行に行った時に撮った写真で、あたしも夏希も、お父さんもお母さんもみんな楽しそうに笑っている。あたしはこの写真を、このトイレで約十年間見てきたし、夏希も九年間は見ていたはずだ。
トイレを出て台所に戻ると、夏希の姿がなかった。収納扉は開けっ放しになっていて、鍋とフライパンも床に残っている。あたしは居間に移動する。すると、壁際にあるタンスの一番上の引き出しを開けて中を探っている妹の姿があった。
「やめなって。もう」
 あたしは夏希の肩を掴んで引っ張る。が、「ちょ、ちょっと待って。ちょっとだけ」と言って夏希は引き出しにしがみ付く。
 あたしはカッとなって肩を掴んでいる力を強める。本来眠っているはずの時間なのに、ほとんど取り返しが付かないくらい覚醒してしまった。「何がだよ。離れろよ」あたしが両手を使って引き剥がそうとすると、夏希は余計に強く抵抗する。「やめてよ。痛ったい……!」あたしたちはあっさりと、本格的に揉み合い始める。カレンダーの写真に写っていた頃より少し前くらいまでは、あたしたちはよくこうやっておもちゃを取り合っていた。けど、今取り合っているのはこの家にあるお金で、あたしたちはもうこんな風に争うような年齢じゃない。「離れろよ、離れろって」そう言いながらあたしが何度か体を引っ張った後、夏希の左腕があたしの顔を殴り付けた。
あたしは畳の上に横倒しに倒れて頭を少し打つ。一瞬だけくらりとして、痛みが走ると同時に頬骨を手で押さえる。あんな細い体で、こんなに強い力が出るものなのかと思う。あたしが倒れたのは、どのくらい夏希の腕力によるものなんだろう?
「あっ、ごめん、ごめんね」
夏希が申し訳なさそうな声色で謝っている。
「当たっちゃった。わざとじゃないんだよ。ごめん」
 そう言いながら、夏希はここぞとばかりに引き出しに入っている物を次々と外へ放り出していく。
 あたしは上体を起こしてその姿を見る。
「ここじゃないか、クソ……」
 中を空っぽにして目的の物が見当たらないと、夏希は隣の引き出しを開けて同じように何もかもを放り出していく。その動作はどんどん乱雑になっていく。
 あたしは頬骨を押さえるのをやめる。そんなことよりもっと痛いことがある。言いたいことがある。
 あたしはできるだけ興奮を治めて言葉を発する。
「夏希、あんたさ……」
「ああ、ああ、いいから」
 うんざりとあたしの言葉を遮る夏希は、あたしの方を見ていない。
「もうマジでいいから。お姉ちゃん、何も言わなくていいから」
 夏希の声色が変わっている。さっき台所で、あたしが夏希に向かって発していたのと同じ声色だと思う。
「今さ、あたし自分のこと理解してくれる言葉以外聞きたくないんだよね」
 あたしはその言葉を聞いて、畳に座り込んだまま、黙って夏希の後姿を見ている。
「あ、あったあった」
 夏希は引き出しの奥から細長い封筒を見付け出す。中を覗いて確認し、嬉しそうに笑みを浮かべている。
「よかったー。ふうー」
 心底安心したように言い、夏希はあたしに背を向けて、パンツの後ろのポケットに封筒を突っ込む。パーカーの裾が持ち上がり、一瞬、腰にいるあの男の顔が見える。男はあたしを見下ろしていて、あたしは男を見上げていた。
 夏希はそのまま居間を出る時に首だけあたしの方に向け、「じゃあね」と一言だけ言って去って行った。廊下を歩く音と、扉を開ける音が壁の向こうから聞こえて、それきり静かになった。あたしは立ち上がることもできずに居間の様子を見ていた。畳の上には、この家であたしたちが使っている物が散乱し、タンスの引き出しは開けっ放しになっている。台所も同じだった。何も片付いていない。
 そのうち、物音と声で目が覚めたお父さんとお母さんが二階から下りてきて、あたしを見付けるだろう。そして今さっき何があったかを聞いてくれる。顔を殴られたあたしのことを心配して、抱き締めてくれたりもする。きっとそうに違いない。とにかくそうであってほしい。あたしはそれまで、立ち上がれそうにない。



この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,179件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?