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小説:踊る彼女を見る夜

 夜に仕事から帰って一人で夕飯を食べていたら、ベランダからいきなりリビングの窓を割って人が入ってきた。そいつが何も言わずに金槌を持った腕を思い切り振りかざしたので、慌てて何も持たずに玄関から逃げ出して、最寄りのコンビニまで振り返らずに走った。駆け込んで、店員に事情を説明して、かくまってもらい、警察に通報してもらった。バックヤードで待っていると、警官が二人コンビニへ到着した。もう一度事情を話し、部屋には戻れないだろうが、どこか行く宛はあるかと尋ねられ、「三駅先に男友達が住んでるんで確認します」と答え、その場で電話を借りて僕に連絡が入った。
 これが今夜のプロローグであり、クライマックスだ。
 和花奈から電話口で以上の話を聞いた時、僕の住むアパートの部屋には飛川がいて、来週Youtubeに上げる新しい動画の収録を一緒にしていたのだが、そうであるから僕の部屋に入れるのは無理だとは答えられるはずもなく、僕は飛川に謝って収録を中断させてもらった。謝りつつも、僕は飛川に電話口で聞いた和花奈の事情を話すことができないまま、強引に部屋から追い出す形になってしまった。なぜそうしたかというと、それは飛川と和花奈を一ミリでも関係させたくなかったからだった。少なくとも僕の前では。
 とにかく早々に飛川には退散してもらい、僕は飛川と自分の二人分の牛丼の空容器やコップを片付け、先程部屋の外まで出てから和花奈に告げた「今? 別に誰もいないし問題ないよ」という台詞に、百パーセントの説得力を持たせるための整頓作業を行わねばならなかった。実際のところ、それほど熱心にやるような作業でもないのだが……飛川に和花奈の存在が感知されることに比べれば、和花奈に飛川の存在が感知されることは、かすり傷に等しい。
 やがて和花奈が僕の部屋にやってくる。和花奈が僕の部屋に来るのは今までにも何度かあったことだが、今回はそれ以外の付加された情報があまりにも異例だった。
「あ、ごめん。お邪魔しまっす」
 そう言って、和花奈は返答も待たずにドアと僕の間に体をねじ込んだ。一瞬だけ照れたような笑顔を見せ、その後は僕の方にはろくに目を向けることもなく、帰宅した小学生みたいにスニーカーを脱ぎ散らかして上がり込んでいく。和花奈の普段の靴の脱ぎ方を思い出す。向きを逆にして脱いだり、後からわざわざ配置を整えたりはしないが、普通に左右揃えて脱ぐくらいのことはしていたはずだ。働いてるんだかどうだかよくわからないし、時折男や女とややこしいことになったりしてはいるが、一応一人でそれなりに暮らしている立派な大人だ。僕はかがんで和花奈のスニーカーを揃える。片方の踵が踏み潰されている。それも立て直してやる。
 さて、どう声をかければよいかなと考えながら立ち上がり、部屋の奥を見ると、リビングで和花奈が踊っていた。
 目を瞑りながら手足を目いっぱい動かし、回転したり、胴体をねじったり、伸び縮みしたりして、僕には聞こえない音楽に合わせて何かを表現していた。
 僕はしばらくその場で立ったまま見て、飲み物を入れることにした。こういう時はホットココアなどを飲ませた方が良いのかななどと考えたりもしたのだが、冷蔵庫の中かから麦茶の入ったピッチャーを取り出し、ガラスのコップに注ぐことにした。今は四月だし、冷えすぎることもないだろう。
 僕がコップを持ってリビングに入り、「麦茶入れたんだけど、違うやつの方がいい?」と聞いても、和花奈は踊り続けた。
 無音の中、懸命に動く和花奈の息遣いが聞こえる。僕は邪魔にならないよう、壁に背を付けて床に腰を下ろした。
 しばらく見ていると、和花奈のダンスは終わりを迎えた。目を開け、息を少し荒げながら僕の隣に腰を下ろす。
「お疲れ様」
 僕が言って差し出す前に、和花奈はコップを奪い取って勢いよく飲んでいる。コップから口を離し、一息吐き出して、もう一度コップに口を付けて飲み干す。
「ありがとう」
 会釈しながら空のコップを返し、僕はそれを「いやいや」と言って受け取る。
 この「いやいや」とは何だろうか? 「このくらいのこと礼を言われるほどじゃないよ」「今は人にお礼を言うような気遣いをする必要はない」「何でも聞くからお礼よりも話したいことを話してくれ」……同じ気持ちでも、言葉にすると色々な言い方ができてしまう。それらを一言で表したのが、「いやいや」なのかもしれない。
 僕が黙ってそんなことを考えている間、和花奈は着ているスウェットの袖を暑そうにまくり上げ、裾をはたいて体を冷ましている。汗の臭いが少しだけ僕の鼻を刺す。
「黙って見ててくれてありがとうね」
 少し俯き、再びお礼を言った和花奈に、「僕は合の手を入れるセンスがないから」と返す。
 和花奈はふふ、と微笑み、髪をかき上げる。
「変な踊りだったでしょ」
 僕は「だいたい踊りなんてみんな変なもんだよ」と言おうとしたけど、やめて「変だった。けど、良い踊りだった」と言った。
 和花奈はもう一度微笑んで僕に礼を言い、呼吸を整え終わって、「急に押し掛けて、急に踊ってごめんね」と言う。体操座りの姿勢で、自分を抱きながら話し続ける。
「自分の体がここにあることを確認したくてさ」
 僕は「うん」と相槌を打つ。
「いきなり知らない人に襲われたり、ここに来る途中で飛川に会って、絡まれたりしたから、自分で自分のこと制御してる感覚が曖昧になっちゃって」
 会っちゃってたのかよ、と僕の肝が冷える。時間差が少ないから、外で鉢合わせないかどうか危惧していなかったわけじゃないけど、駄目だったか。絡まれて、また何か面倒なことにならなかっただろうか……と、僕は案ずるが、今ここで話している和花奈の表情を見て思い直す。事態は避けられなかったけど、駄目だったわけじゃないだろう。
「大変だったよな。僕もそんな目に遭ったら、めちゃくちゃ怖いよ」
 飛川と遭遇したことが気になりはしたが、僕はひとまずそう言う。すると、和花奈は開いた自分の両手を見つめながら「そう、怖かった。怖かったんだよね、わたし」と呟く。
「怖いのかどうかもよくわかってなかった。感情も自分の中に戻ってきた感じするよ」
 それは僕に向かって話しているのかどうかわからなかったが、とにかく僕は「うん。うん」と和花奈に合図をした。和花奈は手の平を閉じて、涙を流し始めていた。
「怖かった。怖かったなあ」
 声を震わせながら遠くの方に向かって言い続ける。伝った涙が床に落ちる。僕はティッシュの箱をテーブルの上から持ってきて、三枚引き抜き、和花奈に箱と一緒に手渡す。
「ありがとう。ごめんね」
 こういう時、悪いことをしていなくても人は謝る。僕は「いいよ、別に」と返す。和花奈はティッシュを両目に押し当てている。溢れ出るものは受け止められるべきだ、と僕は思う。
 僕たちは隣り合って座っている。和花奈が僕に体を寄せることもないし、僕が和花奈を抱き寄せることもない。前にそういうことをしたが、僕たちはあまり良い目に遭わなかったのだ。
 それからしばらく、和花奈は自分の弱さについて話し続ける。僕は今度こそホットココアを作って差し出す。話し終わると、お互いに入れ替わりでシャワーを浴び、僕の部屋着を着た和花奈がベッドで眠る。僕は静かに寝息を立てている顔を見ながら祝福する。この部屋から出れば、また和花奈を不自由するものが多く現れるだろう。そういう時、また彼女が踊り、その姿を見せてもらえれば、僕はひとまず幸いだと思う。



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