見出し画像

映画『あの頃。』と『SK∞』と私たちの正しくない欲望について、友との対話

はじめに

先日(3月17日)、「映画『あの頃。』と『SK∞(以下、エスケーエイト)』と私たちの正しくない欲望について」というタイトルでツイキャスをしたので、noteに記録を残しておく。

P……私(pirarucu)。最近エスケーエイトのことばかり考えている。
易……いなだ易(penpenbros)。pirarucuの友達。『あの頃。』当時は阿倍野で小学生をしていた。

P:この前、映画『あの頃。』を観たんだけど、Twitterに書きづらい感想ばかり浮かんできたので、ツイキャスで二人で喋ることで消化しようと思います。

易:ハロオタ的には盛り上がってたね。私も観に行きました。原作は、神聖かまってちゃんの元マネージャーで、あらかじめ決められた恋人たちへのベーシストでもある劔樹人さんの自伝的なコミックエッセイなんよね。

P:あらすじを説明すると、バンド活動に行き詰まっていた劔青年が、松浦亜弥にハマったことをきっかけに、ハロオタ仲間に出会い、バカやってるうちに自分の道を再び歩むようになっていくっていう話です。

易:ハロプロあべの支部、のちに恋愛研究会。っていうオタクサークル仲間とのやりとりが話の中心で、普遍的な青春映画であると同時に、ハロオタ映画としても描写が細かくてこだわってた。

P:2003〜2005年くらいの話で、当時のグッズの時代考証とかちゃんとやってたぽいですね。

易:一方で、オタク男性の集団を解像度上げて描いた結果、彼らが内在するホモソーシャル的な加害性がありありと再現されていた。特に趣味の仲間って、場の公正らしさが求められないから露悪的な"おふざけ"が過激になるよね。
「アフター6ジャンクション」で批判的なメールが紹介されてたんやけど、正直このメールは非常に的を射た感想やと思う。

宇多丸、『あの頃。 』を語る!【映画評書き起こし 2021.2.26放送】
「彼らにとってはアイドルやハロプロよりも、仲間内での“このノリ”を共有するための媒介の方が大事なんだと思いました。」「でも、やっぱり彼らはそのために、自分たちの物差しで他者をジャッジし、いろんな他者を消費しているじゃないか。その行為の結果や対象に向き合わず、その暴力性にも気付かず、関係性や立場がごく自然な時の経過とともに変化しただけで、『もう戻れないあの頃』としてノスタルジックに終わったものにしてしまうことが全く信用できませんでした」

P:うん。原作者の劔さんは「映画になった記憶は良いことばかりではありません。(中略)反省していることもある」と言ってはるので、全く無自覚な訳ではないんだろうけど。

易:原作者やモデルの人物の人格や思想と、他にたくさんの人の手が加わって創作された映画作品の表現は別次元の話やね。

P:もちろん映画がホモソーシャルの暴力性に無反省な仕上がりになってたことに対する批判は重要なんだけど、今日は『あの頃。』を見てうちらの胸に去来した感情の話がしたい。

易:せやねん。理性的な議論は一旦置いといて、かなり主観と経験による私たちの「正しくない欲望」の話をしたいと思います…。

P:ぶっちゃけると、我々は映画を観て、謎のフラッシュバックに苦しんだんだよね。私たちは二人とも、学生時代に文化系というか、オタクボーイズクラブ的なコミュニティに所属していた過去があって、そのころの記憶が蘇ってきた。

易:はい。映画観た後、pirarucuさんはナントカちゃんの話しかしなくなってたね。

P:ナオちゃんな。いなだが名前を忘れるくらい人格が描かれない登場人物なんですけど、ナオちゃんは最初、アール君というメンバーの彼女として恋愛研究会。に紹介されるんよね。で、劔青年と対の主人公的な存在のコズミンがナオちゃんに手を出して、アール君と揉める。最終的に恋愛研究会のイベントで公開謝罪して仲直りみたいになる。

易:コズミンが手を出したことを劔君がバラす流れも最悪やったな。

P:私は映画の途中からナオちゃんのことしか考えられなくなってしまった。文化系ホモソの中でメンバー数名と付き合ってしまうと、参加してない場でネタにされてしまうのがあまりに身に覚えがありすぎて。ナオちゃんはコズミンと付き合ってたわけちゃうけど。
コズミンがイベントで公開謝罪するシーンとか、ナオちゃん全然出てこなかったのに、私は一人でナオちゃんの気持ちになってた。

易:結局女をネタに男がイチャついて終わる、ありがちなホモソーシャル的結合を見せられたよね。いろいろ思い出して辛かった。でもめちゃくちゃ楽しそうなんだよな。
私は映画冒頭の劔君がハロプロあべの支部のイベント終わりの宅飲みに誘われたシーン、羨ましすぎて号泣してしまった。ロケ地は違ったけど元ネタと地元が近いこともあって、大阪弁の感じとかも含めてああなりたかったのに……と思って悔しくて。

P:女やったら絶対誘われてないやろうしね。

易:実際、そういうコミュニティの中に入りたくて、学生時代に所属してみたし、かなりコミットしたけど、なんか決定的なところで男の輪に入りきれなかった悲しい思い出がある。仲良くはしてもらってたんやけどね。
確かに飲み会会場にいるのに、真の飲み会に入れない気持ちを久しぶりに味わってしまい、死ぬかと思った。

P:そもそもあそこに入りたいと思ってしまう時点で、外から批判できる立場でもないんですよ。

易:うん。そういや映画の中で、銭湯での会話シーンが象徴的に描かれてて、何度も出てくるやん?あれ見て、ついさっきまで一緒に話してた男たちが銭湯で話の続きをしていたと知った時の悲しみが蘇ったわ。いや、私は君らと銭湯では駄弁れんが……みたいな気持ち。阿倍野の銭湯知っとるし。

P:なぜか銭湯で大事な話をするんよな。なんで?
映画『あの頃。』に登場する女性たちは、恋愛研究会。のバカやってる感じに忌避感を示したり、興味を持って近づいてきても結局別のところで彼氏を作って離れて行ったりするという風にストーリー上描かれるんやけど、それって恋愛研究会。の視点からの解釈でしかないやん。ホモソ周りをうろちょろしていた自分としては、女性キャラクター自身の感情がめちゃ気になった。

易:いわゆるホモソーシャルって、暴力や上下関係の醜悪さがセンセーショナルに取りざたされるけど、むしろ負の側面より楽しい側面の方が大きいからみんなやってるんやろ。仲間に入れたらサイコーやろなと思ってしまうんよな。

P:まあでも、ホモソ側から見ると、ホモソに入りたいと思っている女なんかいないということになっているんやろな。

易:言い方難しいけど、「女が近寄ってこない俺(たち)」という演出もホモソのミソジニー含みの自己愛やなぁと思うんよね。見覚えある…。
劔君の後輩の靖子という人、最初は恋愛研究会。を学祭に呼ぶくらい積極的に興味持ってたけど、劔君に誘われたあやコンをドタキャンするやん。ノンフィクションベースだからまぁそんなこともあったんか、と観てたけど、彼女が複数の人のエピソードを組み合わせて創作されたキャラだと後から知ってショックだった。

P:女が入りたいと思っても、彼女候補的にしか見られなかったり、恋愛的な関係になった結果「仲間」として扱ってもらえなくなったり、「女子にはこのノリしんどない?」みたいなよくわからん気遣いされて結局疎外されたり、難しいねん。

易:しんどいとか誰も言うてへんのにな。しかも気遣いふうの言葉をかけられるときって、結局男性主体の露悪的な「ノリ」自体をやめたりやめさせるつもりはなくて、それが嫌なら出て行くしかないって意味であることも多いし、そうじゃなくても「いなだちゃん嫌がってるやろ !」「そんなこと言うていなだちゃんに気でもあるんか?」的な頭越しのコミュニケーションに回収されて無効化されがちなんだよな。

P:まあ実際自分がセクハラとかされるとびっくりするんですが。

易:憧れてるくせにめちゃくちゃ傷つく。そんな感じで一回入ろうと頑張ってみた結果、ホモソに入り切れないことに気づいて、きっぱり諦めたつもりでいたのに、『あの頃。』を観るといまだにこんなにホモソに入りたいと感じている自分がいて怖い。

P:でもさあ、銭湯に入れようが入れなかろうが、ホモソに憧れるのはさっさとやめなあかんかったんよな。ホモソに憧れるのはホモソのダメな部分も含めて肯定してしまってる訳やし、ミソジニーに関しては、自分とは関係ないものとして内面化してるってことやん?正しくない欲望なんよ。

易:ほんまに。そのうえで学生時代の自分は、正しくない欲望でホモソに粘着して入れてもらえないことにキレてて、でもそんなんって、恋愛研究会。の男たちから見たら、mixiでレスバして土下座謝罪を要求してた水ぶっかけおばさんと大差ないなってことに改めて気づいた。絶望やん。

P:悲しくなっちゃった。

私たちのあの頃とエスケーエイト

P:めっちゃ話飛ぶけど、漠然としたホモソーシャルに対する憧れって、中学生くらいの頃は持て余してBLにぶつけていたよね。これはあるあるだと思うんですけど。

易:ホモフォビアとミソジニーを建前に成り立っている男同士の親密な関係性に対して、いやその建前は虚構であって、君たちの結びつきはホモセクシュアルでしょ?って読み替えて突きつける行為ですよね。10年から15年くらい前に二次創作や商業BLを読んでいた体感としては、よくあるBLの読み方だったと思う。

P:少年漫画のライバル関係みたいに、女が入り込めない絆を性愛として読むってやつね。これは書き手や読み手にとってはホモソーシャルへの復讐的な意味を持つんだけど、ホモフォビアの大前提に乗っかることにもなるから、現実の同性愛への偏見の再生産を多分に含んでいるという意味で正しくない欲望なんよね。

易:あらゆるホモソに水をぶっかけていましたね。

P:で、最近、私たちのあの頃を思い出すアニメ作品に出会ったのでその話をします。
今放送中の『エスケーエイト』っていうアニメなんですけど。スケートボードを愛し、闇のスケボー場で夜な夜なスケボー競争をしている男たちの話です。

P:メインのスケーターがざっくりと二世代に分かれてて、主人公二人が下の世代。上の世代に四人くらいいるんやけど、そのキャラクター造形がめっちゃ懐かしいんよね。

易:久しぶりに見たよな、ああいうキャラクター。掛け合いとかも。

P:特に上世代の二人、ジョーとチェリーは幼馴染なんやけど、片方はクールで、片方はたらし、二人とも女にモテて、そのことをお互いにクサしあったりしつつ、スケートで競い合う関係なんよね。
どちらも異性愛者であることは前提に、BLとして読み替えるという、一昔前に正しくない欲望を向けていた男たちそのものなんですよ。

易:逆に、主人公世代の関係にはそういう懐かしBL要素が一切ない、男らしさみたいな会話が出てこない、セクシュアリティも明言されてないはず。二人で一緒にスケートをするのは何より楽しいねと正面から語り合う関係。実際2010年代以降のBLの流行りも、こういうホモフォビアとかが背景になく惹かれ合う二人の物語だと思うんよね。

P:BL世代間闘争や!

易:そうそう。ターゲット消費者世代の異なるキャラクターを同じ作品に並行して登場させること自体は、例えばソシャゲとかでも可能なんやけど、エスケーエイトが面白いのは、メインストーリーも上の世代との対立になるところで。上世代の愛抱夢(アダム)っていうボスキャラが、エリート的な男らしさを押し付けられて育ってきて、その抑圧の反動として闇のスケボー大会を主催してる人なんですよ。で、自分が苦しめられているはずの能力主義をスケートにも持ち込んでて、優秀なスケーターである主人公の片方(ランガ)にめっちゃ執着するという話。

P:でもランガは、アダムのマッチョな文脈をあんまり理解してなくて、変態仮面みたいなビジュアルやし、自分を「イブ」と呼んで求愛のポーズ的な絡みをしてくるアダムに対して、嫌悪感も示さない。スケートうまくてすげーみたいな反応しかしない。

易:完全にディスコミュニケーションやんな。なんならメイン主人公である暦の方はアダムにコテンパンにやられて、暴力も振るわれて、怖いからもう戦いたくないとか言う。スケーターとしての才能のなさにコンプレックスは感じてるけど、あくまでランガと一緒に滑りたいというモチベーションからやし。少年漫画的な男らしさ概念からはわりと自由やなと思う。

P:多分、話のオチとしては、主人公世代がアダムを倒さないといけないんやろうけど、この話の噛み合ってなさみたいなのを、最終的にどう処理していくのか気になる。

易:そういう意味でも世代間闘争やねん。闘争という見方すら古いのかもしらんけど。

P:昔、ジョーとかチェリーみたいな振る舞いをするキャラクターを散々見てきたし、BL的に消費してきたから、今もめっちゃ好きやけど、じゃあ今、彼らみたいなのが新作オリジナルアニメの主人公として出てきたら、正直キツイなと思う。描き方が上手いなと思うのは、主人公世代と対比させる上世代として登場させてることで、キャラクター像の必然性もあるし、相対化もできてると思う。

易:さっきも言ったように、正しくない欲望やとわかってはいるけど、そういうBLが好きは好きなんよね。というかそれしか知らずに大きくなってしまった。ジェンダーの縛りから離れたフィクションを楽しめる時代になったのは本当に良いなぁと思うんやけどね。

P:結局こういうホモソを解体するタイプのBLがまだ好きなんや…って気づいた。『あの頃。』を見てホモソへの憧れを再認識したのと近しい感情やわ。

易:でもなんで今までこういうBLを手放せなかったかというと、やっぱりホモソーシャルに参加したい、でも入れてもらえないっていう屈託があったからやん。実際この世はまだまだどぎつい男社会やし。少なくとも私はそうや。

P:まあ、みんなに理解してもらえる感情ではないやろけどな。

易:生育環境の影響とかもあるのかもしれん。そもそもなんでホモソに入れると思ってたんや。

P:『あの頃。』は過去の話を普遍的な青春物語として語っているせいで、ただみずみずしいホモソがそこにあるやんか。羨ましい気持ちと傷ついたりした経験と怒りで冷静には見れないんよね。

易:はい。心の複雑な部分が悶えました。私たちの正しくない欲望を早く流し去って欲しいので、エスケーエイトの主人公二人には期待している。あと三話しかないけどどうなるんだ。早く結末が見たい。

この対談は、2021年3月17日に行われたツイキャスを元に編集した。
対談当時では、エスケーエイトは残り三話であったが、現在(2020年3月30日)においては最終話を残すのみとなっており、興味深い展開になっているので、このnoteを読んで気になった人は見てみてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?