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心の壁の薄い男の話

 人間は25歳頃にはそのほとんどの価値観が完成して人格形成の終わりを迎えるという話をどこかで聞いたことがある。他方で10年前の自分は他人だと思った方がいいくらい人間の中身は変化を遂げるという話も知っている。30歳を過ぎたくらいから仕事に余裕が生まれてやりやすくなったということも職場の先輩から聞いたことがある。結局のところ、人間の中身は変容を続ける普遍的な存在であるという矛盾を抱えた厄介なものなのだろうか?音楽史における革命を起こした大作曲家のベートーヴェンだって30歳になってようやく自分の感情をその作品の中に吐露するようになったという話だ。30歳になってようやく何かが変わってくることもあるのだろう。尤も、当時の音楽界では形式的な美を一つの価値基準に置いていたことか作曲家が自身の思いをその曲に込めるというのは一般的ではなく、その後のロマン派の占める時代に興ったものであるが。

 さて僕はといえば周囲の人間を含めた自身を取り巻く環境から影響を受けやすい方ではあるのだが、特に好きになった人からの影響は測り知れないという実績があり、現在の自らの価値観の中にどかっと座り込んでいることを日々実感している。心の壁がレオ○レスより薄いためとにかく影響されまくり、挙げ句の果てには「その人と同等の何かになりたい」という思想を持つようになるのだ。気持ちが悪い。
 僕の趣味の一つにお菓子作りがある。昨年から始めた趣味であるものの製作したお菓子はフィナンシェ、シュークリーム、ナポレオンパイ、ミルクレープなどとかなりマニアックだと自負している。特にナポレオンパイは思い出の塊と言ってもいいほどあれこれ思念(または私怨)の詰まった存在である。ナポレオンパイのナの字も知らなかった僕であったが当時片思いしていた人と会っていたときにその人は「ナポレオンパイ食べたいな…」と話したのだ。ナポレオンパイは平たくいえばイチゴのミルフィーユのことで、フランス革命で大活躍した後にあれこれやらかして失墜したあの方の被っていた帽子から着想を受けたフランスの菓子だとか。ベートーヴェンは民衆から生まれたナポレオン・ボナパルトというヒーローに感銘を受け、自身の交響曲第三番に英雄という名を冠してナポレオンに献呈したはずなのに、後の彼の政治上のやらかしに激怒して楽譜を破り捨てたという話は有名な話だ。

脱線した…。

 その片思いしていた人を振り向かせたかった当時の僕はナポレオンパイを食べられるお店を探し回った。だが、表参道でならもちろんそれを売りにするお店もたくさん見つかるだろうが、しがない田舎にそんなおしゃれな食べ物を売っているところなど見つかることもなく途方に暮れていた。そんなときに「店がなければ作ればいいじゃない」とどこかの国の浪費家王女のようなアイデアが降りてきてしまった。これによりフィナンシェとチーズケーキしか作ったことがなかったアラサー男子がいきなりナポレオンパイというそこそこ手間のかかるお菓子作りに挑戦することになる。製菓技術に関して明るくないのだが感覚的には「ぬののふく」と「どうのつるぎ」を装備したレベル1の勇者がいきなり魔王に挑むくらいには無謀な挑戦だったんじゃないだろうか。

 かくして始まったナポレオンパイ作り。今では慣れてきているがもともとお世辞にも要領が良いタイプではない僕が手順の多いお菓子をテンポよく作れるはずもなく、パイ生地をオーブンの中で爆発させたり緩すぎるカスタードクリームにより組み立てたケーキを崩壊させたりと4回ほどの失敗を重ねたのち5回目になってようやく完成させたのだった。平日朝6時に。

午前6時に完成。空が青い…。


 その日は金曜日。片想いしている人と晩ごはんを食べる予定の日ということもあり、仕事後に作っていたらとても間に合うものではないため午前4時から作り始めていたのだ(業者かな?)。
 こんな行動を見てると朝早く起きて普段からテキパキしてる人のようにも思えるが仕事の日は家を出るギリギリまで寝て大慌てで顔を洗い服を着替え、朝ごはんなど食べる間もなく定時ジャストに職場に到着するという有様だ。そんな人間が「好きな人を振り向かせる」というかなり不確定な目的のために朝早くから動いていたあの日の自分には称賛の嵐だと思う。
 その日の夜はお菓子を持ち込んだことによりお相手の家に乗り込むことにも成功し、無事「おいしい」の4文字をもらうこととなった。これが直接の好意に結びつくことはなく進展を招くわけでもなくその後もスイートポテトやバスクチーズケーキなどの手作りお菓子攻撃は続いたのだが本丸を落とすことはありませんでした。無念。

 ほろ苦いどころかしょっぱすぎるそんな片思いは2年間続いたのち桜の咲く前に散ってしまうこととなったのだが、一定の成果はあげている。もともと「趣味:趣味探し」と言っても過言ではないくらいに趣味のなかった僕にお菓子作りという趣味が生みだした。夜中に無心でメレンゲを立てたり生クリームを泡立てたりするのはとても良い。頭の中が空っぽになっていく感覚は瞑想のようだ。そうして夜中に出来上がったお菓子が翌日の夕方に職場で振る舞われることとなる。好きな人の胃袋を掴み取るべくお菓子を作った経験から僕の作るお菓子は味、見た目共に好評で給湯室に小さな列を作るほどに話題となった。職場の人たちから称賛を受ける度に自己肯定感が上がる感触がして作り続けていくうちに完全に趣味化したと言える。

 従来僕は「作るより買う方が安いし早いし旨い」というコスパタイパを最重視する人間だったのでお菓子作りはおろか料理さえすることはなく近所のドラッグストアで買った一つ300円のワンプレート冷凍食品を冷凍庫に大量に詰め込んで毎食それを食べる生活を送っていた。電子レンジは日々酷使されるのにオーブンには見向きもされないのだ。Sex and the Cityという洋ドラに出てくるコラムニストで主人公のキャリーブラッドショーも「私オーブンに本を入れるような人間よ」と言っていたがさすがに本は入れたことがない。その手に近い僕がお菓子作りをし、料理を始めたというのは645年の大化の改新ばりの大変革なのではないだろうか。ちなみに料理も片思いの人が好んでしていたことの一つである。

 結果的にあれこれ吸収して自分自身に変容を残して終わった恋愛であるが、これは何も結果論であってこの人を恋愛的に落とすためにあの手この手ととっていた手段が趣味という自分のライフスタイルの一部となっているのだ。星のカービィのようにコピーしたくてパラソル付きワドルディを吸い込んだわけではなく、デデデ大王にぶつけるために吸い込んで吐き出すところを思わず飲み込んでパラソルのコピー能力をゲットしたのと同じだ。これを変容と呼んでいいのか分からないがとにかく僕の人生にはこんなことが多い。気付いたら恋愛を通して何か本来の目的でなかったものをゲットしてしまうフシがあるのだ。今となっては特級呪物となってしまったナポレオンパイもその一つ。

さてナポレオンパイ作ろうかな。

先日作ったナポレオンパイ。我ながら成長した。

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