自分と人生に隙間があるならチーズケーキでも詰めたらいじゃんって話
自分の人生に絶望してるわけではない。だけどいまいち自分の人生を歩んでいる実感もない。毎日、全集中までとはいかないが呼吸をして人並みに仕事をして、休日はどこかに出掛けて美味しいものを食べたり買い物をしたりする。それなのにこの絶妙に埋めきれない人生と自分との隙間に詰めるべきものの正体は何なのだろう。思いたくないが欠陥だらけの人生に対しどのように向き合っていくことがせめてこの世に生み落とされた者としての生き様であるのか。
僕の脳は現実逃避するのが好きらしい。頻繁にどこか架空の世界へと逃げ込んでしまう。現実から目を逸らして、こうすれば楽しいのに、ああなれば嬉しいのにといった自分なりのユートピアを頭いっぱいに広げ回るのだ。何となく仕事に行きたくない朝に「職場が爆発してればいいのにな」とみんな考えていると思っていたい。たまに出会う「お仕事大好きマン」は自分の対極にいる存在であり、もしこの日常が戦場と化すなら真っ先に銃を向ける存在である。とは言ってもそんなおしごと大好きマンは大抵パワフルで声が大きくいつもニコニコしている。僕はその顔は仮面を被っているのではないかといつも疑いの目を向けている。さらに筋骨隆々な肉体を兼ね備えているため、僕が銃を向けたとしてもその逞しい上腕二頭筋を振り回して繰り出されるダブルラリアットにより上空2.5mの宙を舞い四肢をもがれてしまうのがオチだろう。我ながらすごい妄想だな。こんなに想像力が豊かなのにひとまず今日の日までイマジナリーフレンドを作らずに生活できている。僕にしか見えないお友達は存在してないが、2年前に購入したモンステラに向かってベラベラ話しかけることは茶飯事である。仕事の話に戻るが基本的にキャパシティの乏しい人間なのでTo Doリストは常に満タンに近い状態で日々を生きている。そこ不意に仕事が降ってきたりなんかすると本気で自分のデスクに火を放ったり、オフィスの中央で白目をむきながらのたうち回り、奇声をあげてゴキジェットを噴射された死にかけのゴキブリのように暴れたことだってある。もちろん脳内で。
10年ほど前に実家を離れ県を跨いで引っ越しをした。居心地の悪い家から出たくて、その原因をせっせと作っていた母への復讐は「最愛の息子が隣県への引っ越してしまう」という不幸の実現であった。居心地の悪さは言い出すとキリがないかもしれないが、大学を卒業して社会人として働く息子が出かける際に「何処にいくの?」「誰と行くの?」「何するの?」「いつ帰ってくるの?」と決まって玄関先で質問する親をイメージすればその居心地の悪さも伝わりやすいかもしれない。そこで「誰とでもいいじゃん!」などと言ってしまうと帰宅した後には「私に言えない人と遊んできたの楽しかった?それとも犯罪でもしてきたの?大学までちゃんと行かせてあげたのに息子がオレオレ詐欺の受け子にでもなっちゃうなんてね。そんなにお金が欲しいの?お母さんのことATMとしか思ってないもんね。金食い虫だもんね。私のことなんてさっさといなくなればいいと思ってるんだ。」などと見事な「お母さんヒス構文」が披露される。タチが悪いことに翌日くらいまで引っ張るのも僕の母の凄まじい特徴である。ねちっこい。そんな母へのささやかな復讐と自由の獲得を兼ねてちょっと県をまたいだ引越しを決行したのだが、僕は自分のハートの小ささを忘れていた。すぐ緊張する、すぐアワアワする。小学5年生のときの授業参観では、教室後方の保護者の群れの中にいる母にいい姿を見せようと張り切って挙手したくせに、そこで突然緊張に襲われ蚊の鳴くようなものすごく小さな声で意見を言った。家に帰った後に母に「みっともなさすぎる!」と怒られた思い出がある。そんな情けない思い出をデパートのようにいくつも持つミジンコのハートの僕にとって、勢い任せに家を出て見知らぬ土地で知らない人たちに囲まれて仕事をするということは猛烈に負荷のかかる日々を送ることであった。同じ職種であるが場所が変われば常識や式たりも異なるものになるため、20代中盤を越えてもなおアワアワしながら仕事をしていた。この頃は若くしてこの世を去ったスウェーデンの音楽プロデューサーであるAviciiの曲をよく聴いた。特に「I Could be the one」という曲をよく聴いていた。もちろん全部英語の歌詞なので意味も分かっていないし、それを調べようとする素養もなく聴いていたのはミュージックビデオにそれはそれは強く惹かれていたためであろうか。毎日楽しくない仕事を同僚に振られては家に帰っては寝て、起きればまた仕事に行く中年女性(おばさん)の様子からミュージックビデオは始まる。しかしある朝、いつものように仕事に向かうためにベッドから身体を起こすとそこは知らない部屋と横に寝る知らない男。部屋の窓から大きく美しい海を眺めたおばさんは、窮屈な会社のいち歯車から、馬に乗って男を食いあさりショーのダンサーのパンツにドル札をねじ込み今をとにかく楽しむパリピへと変貌した(というおばさんの妄想)。楽しい時間はわずかばかりでまたしても始まる冴えない日常。妄想と現実に挟まれてその境界線が曖昧になり、全てに嫌気がさしたおばさんは全てを解放したのだった……!的なストーリーだ。ラストは中々衝撃的なシーンで幕を下ろす。
このミュージックビデオをとにかく観まくっていた当時は気づいてなかったが、今思えばきっと自分もおばさんのようになりたかったんだろうなと振り返る。仕事でアワアワしてばかりの日々から逃げ出したいのにそれをする勇気もない自分に辟易していたのだろう。同僚に嫌味を言われたり、管理職から些細なことで怒鳴られたりしながらそれでも生きるべく働かねばという思いで仕事に向かっていた日々の至る所に、このおばさんのように発狂しながら中指を突きつけたい瞬間や人物はいくらでもあった。ともするとおかしな話であるが、おばさんに自分を重ねて視聴していたのだろうか。逃避できても打破できない日常にうんざりしていた僕にとって、このミュージックビデオを観ることもまた心地よい逃避であった。
今だったらむしろ自分のアワアワを隠すことなく寧ろ「うぅぅ…」「ああっ」「やー!」とちいかわの如く言う。俺を助けろ、というアピールをするべく。30代成人男性のちいかわ。きっつい!そしてちいかわというよりモモンガだ。
僕はよく「ここじゃないどこかへ行きたい」と思うことがあった。さきほどまで述べていた現実逃避の脳内バージョンではなく、物理的に別の場所に逃げ込みたいと思うことが多かったのだ。具体的に言えば東京や大阪、横浜は神戸、京都。ときにはほとんど行ったことのない海外に移住したいと思っていた頃もあった。逆に言うと、今自分のいる此処にはいたくないとも感じていたことになる。そして一度としてこれらの場所に住んだことはない。旅で何度か訪れるのみなのだ。
僕は幼少期から中学生になる少し前まで父方の実家のあるちょっとした離島に住んでいた。母がその離島に赴任したことで父と出会いこの腐敗した世界に僕と言う悲しいgod's childが生み落とされた経緯となる。鬼束ちひろ最近見かけないけど元気かな。その島で楽しく暮らしていたらいいのだろうが、母はこの島の不便な生活に嫌気がさしていたのか頻繁に僕や弟に愚痴をこぼしていた。月曜日から金曜日までを島で過ごし、土曜日曜を街中にある母の実家で過ごすという生活を何年も送っていた。「あっち(母の実家のある便利な地域)に戻りたい。ここ(島)なんて最悪。」というフレーズを100万回は聞いた。じゃあなんで島の人と結婚したんだ、と言わなかったのは子どもながらの僕の優しさではなく単純に面倒だったからだと思う。母の使う「お母さんヒス構文」はこの頃にはすでに完成されており、それをまともに喰らってしまうとHPがマイナスへと振り切るからだ。僕自身は島の暮らしもそれなりに楽しんでいたと思うが、何となく今自分が住んでいる場所にそんなに価値はないのだと思うようになっていた。母親という子どもにとって影響力抜群の存在がそういうのだからそうなのだと刷り込まれていた。その後、程なくして街中とよばれるエリアへと引っ越した。島という場所は不便だ。小学生の僕にとっては経済や物流の不便さなど気にはならなかったが、その小さなコミュニティで成り立つがゆえのめんどくさい人間関係に反吐が出ていたのは認める。うぉえ(反吐の出る音)。1クラス5人しかいない教室にはどんなに反りの合わない級友であっても関わらずに済む方法がないのだ。一度こじれるとどんなに大人が介入しても形だけの仲直りしかできず、お互い顔も見たくない相手と日々なんらかの関わりを持ち続けて生活を送らねばならない。人が少ない小さい学校はみんな仲良しなんだよね、と思っている全ての人に「場合による」というアンサーを突きつけておきたい。僕にも犬猿の仲なのに無理やり仲のいいふりをお互いして、記憶にもないような些細なきっかけで歪みあう級友がいた。その周りには揉めている2人のうち、さあどちらに付こうかと動向をうかがう他の3人。僻地学校など、こんなもん。その様子を打開すべく転校を唱えたのも母だった。母自身も島での生活が嫌になっていたのだろうが、自分の子どもの情操教育にあまりにも悪質な環境だとして引っ越しを実行してくれたのだ。これについては本当に母に感謝している。おそらく父やその祖父母は猛反対だったのだろうが、母が押し切ったのだろう。ただ、ワガママを言うともう少し早くに狭いコミュニティからの脱出を図ってくれると嬉しかった。島での狭い人間関係はご新規の人間関係を作る術を学ぶことができず、また多くの人と関わるスキルを生み出すことが非常に困難な環境だったため、ここ数年で大分快方してきている僕のコミュ障もより最小に抑え込めただろう。小学3年生で脱出が叶った弟はかなり世渡り上手だ。ちなみに犬猿の相手とは高校で再会して「久しぶり」と声をかけられなが「誰?」と冷たく言ってから一度も話しかけられずに卒業した。やはり同級生が200人いるのはいい。気の合わない相手とは関わらなくていい環境は気楽だ。ちなみにその相手はいつも髪の毛を必要以上に梳かしていたためか常にプールから上がったあとのようなヘアスタイルだったため「ウェッティ」というあだ名をつけられ周囲からヒソヒソされていた。
そんな幼少期から多感な思春期を過ごしたせいなのか、僕に郷土愛のような心は微塵も育まれていない。学校教育のルールブック的なポジションを貫く学習指導要領という法令書を何かの機会に目にした時に「わが国の伝統的な文化や郷土を愛する心情を育むとともに〜」のようなフレーズを見かけたことがあったが、文部科学省から見ても僕は見事に失敗作だろう。自分の育った父方の島も母方の街もさほど興味もこだわりもない。その一方で、旅先で訪れた街に強く惹かれるスーパー現実逃避おじさんが爆誕したのだから。未来の日本国家の何の役にも立たなさそうである。大学を卒業後、自分は何度も遊びに訪れた神戸市で働きたくて奔走していたところ母の力で地元に引き戻された時はジュリエットから引き剥がされたロミオのような悲痛な気持ちになった。ロミジュリ……いやもう網膜剥離かしら。網膜剥離ってすごい痛そう。目の中の構造や病理的なことはわからないが、とにかく眼球から網膜がダンボールとガムテープのような関係である上で、勢いよくベリベリと剥がれていくイメージをさせる4文字だ。嫌々ながら実家に暮らしている間も神戸、京都、横浜に移住しようとあれこれ思案を巡らせていた。結局すったもんだあって地元の隣県に引っ越したことによって件の母から距離をとることに成功したのだが、引っ越した先でも相変わらず例にあげた街への憧れは消えないまま今に至っている。先日は数年ぶりに神戸に行ったのだが、やはり神戸に住みたいという気持ちが湧き出すのだ。ただ、10年前と今の違いは旅から帰った後には「楽しかったけどやっぱり家が好き」という気持ちの有無かもしれない。今住んでいる土地に特に思い入れも縁もあるわけではないが、住めば都なのか田舎ながらに自治体のポテンシャルの高さを誇る街だからなのか、僕にしては気に入っている。あるいは数年前に購入した分譲マンションに自分の好きなインテリアを置きまくって居心地の良い部屋を完成させつつあるからなのか。変わらないのは他に住みたいところがあったらそっちに移ってもいいかなというゆるい気持ちだけだが。
自分の人生を微妙に真正面から受け止めきれなくて今自分のいる場所を肯定できずにここじゃない何処かへ行きたいという僕にその自覚を与えてくれたのがエッセイストの塩谷舞さんの著書「ここじゃない世界に行きたかった」である。
塩谷舞さんの紡ぎ出す文章はなんというか真っ白で、あるいは透明で瑞々しく読んでいてスッと頭と心に浸透してくる感じがする。読み終わった後は雨上がりの地面からふっと湧き立つ香りを嗅いだ時のような気持ちになるのだ。一作目の著書を読んでから僕にとって初めてできた好きな作家さんだ。これまでアイドルの握手会や俳優のサイン会、某夢の国のキャラクターのグリーティングにすら行ったことのない人生において初めて「お会いしてぇ!」と思った方だ。画家のAesther Changさんの個展でギャラリストとしていらっしゃることを知った次の瞬間には高速バスの座席をネット予約していた。そのときに書いていただいたサインは家宝にしているしなんなら僕の棺桶には絶対入れてもらいたい。
彼女の紡ぎ出したこの一節こそ、僕が長年抱き続けてきた今いるこの場所ではない場所への憧れに対する答えなのだと思っている。憧れた先にはまた現実があり、理想的な暮らしだけが待っているわけではないのだ。それを盲目的に期待だけして生きることは今生きているこの瞬間が自分から分離し、自分とその人生の間に隙間を作ることになるのだろう。自分が作ってしまったこの間隙を容易に埋めることはできないかもしれないが、それを埋めていくような生き方も美しいのではないかと感じるほどに僕は変容したと自覚している。