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薬剤師、卒業。

今日、現場で働く薬剤師の仕事に終止符を打った。
薬剤師になって10年目の節目。終止符と言っても、わたしの中ではピリオドというよりもカンマに近い感覚で、自分史のひとつの章を書き終えた気分だ。

大学受験という名の戦いをくぐり抜け、6年間大学で学んでやっと手に入れた国家資格を持ち、薬剤師として10年目になる経験を持ちながらも、なぜここを離れることに決めたのか。
「もったいない」と言われるのも覚悟の上。
今日は多く人への感謝とともに、わたしが歩んできた道と、今の正直な思いを綴ろうと思う。

薬剤師を志した理由

わたしが薬剤師になろうと思ったのは、貧しい国の人たちが、日本では薬で治るような病気で命を落としてしまう現実を知り、その人たちを救いたかったから。
特に子どもたちは、この先たくさんの未来が待っているのに、なぜ生まれた国が違うことでこんなに将来が違ってしまうのか。会ったこともない貧しい子どもたちを救うのが、いつしかわたしの使命になっていた。

大学生になり、実際に途上国と呼ばれるような国へ行き、貧しい地域の子どもたちに対して自分なりに行動も起こしてきた。
学生にできることは限られていたけれど、海外に友達もでき、その経験はかけがえのない宝物になった。基本どこでも寝れるし、ごはんだって最初こそお腹を壊していたけれど、なんとかなる。心もお腹も鍛えられたわたしは、ますます国際保健への道を目指すようになっていった。

がむしゃらに動き続けた20代

社会人になり、第一志望の日赤医療センターに就職。国際救援部で働いている先輩を間近で見て、わたしもいつか派遣されたいと思いつつ、自分は性格的にも緊急援助向きではなく、地域の生活に寄り添って長く支援したい、もっと根本から変えていきたい、という気持ちを強くしていった。

当時、学生のときも社会人のときもそうだったが、国際保健に関わっている薬剤師は少なかった。だからこそ、いろんな人に期待してもらい、背中を押された。新しい道を切り拓いてくれと。それがわたしのエネルギーにもなっていた。原動力は自分の中にある、どこからきたのかわからない使命感だったけれど、間違いなく周りの人たちからの応援は、わたしを前へ前へと動かすガソリンのようなものだった。

その後、地域に根付いた活動をするために、青年海外協力隊を目指した。でもその前に、日本で薬剤師として地域で活躍している薬剤師のもとで学びたい。協力隊が決まるまでの間、初めて東京の実家を出て、茨城県のフローラ薬局でお世話になることにした。自社のハーブ園を持っていて、薬だけではなくハーブ、アロマ、食事、薬膳など生活に入り込んだ健康サポートを行なっている。

ここでの経験は、今のわたしの中にも息づいている。健康をつくるのは、日々の暮らしだ。それを改めて知り、さまざまなアプローチをされているので、本当に勉強になった。海外でも、医療の知識だけではなく地元のハーブや食材を使って住民の健康を守ることができれば、症状が悪化して亡くなったり、病院がパンクして助かる命が助からないことも少しは解決できるかもしれない。

生きる意味を考えさせられた父の病気

そう思っていた頃、父の病気がわかった。ALS=筋萎縮性側索硬化症という、徐々に筋肉が動かせなくなっていく病気だ。余命は2年程度。自分で動くことができなくなり、最終的には呼吸もできなくなり命を落とすか、人工呼吸器や胃ろうを使って生きていく。しかし、それによって話すことも食べることもできなくなる。

わたしはこのことをきっかけに、海外に行くことはやめて東京に戻ることに決めた。
これは諦めではなく、自分で決めたこと。誰かに強制された訳ではないし、むしろ両親はわたしがやりたいようにしてほしいと、自分の病気せいでわたしが夢を諦めることを申し訳なく思っていた。ただ、側にいてくれるのは嬉しいとも言ってくれた。

父の病気のこと、たくさん調べた。
でも、医療者らしいことは何もできなかった。
介護に値するようなことも、ほとんど何もできなかった。
母はさすが看護師だけあって、常にきめ細かく丁寧に、父の面倒を見ていたのに。それでも、母は自分が至らないといつも言っていた。

わたしにできたことは、実家にいて、日々の生活に少しでも彩りを持たせること。
介護している母のストレスを少しでも減らすこと。
わたしが海外に行くことをやめたことで辛い生活を送っていると思われないように、楽しく充実した日々を過ごすこと。

たとえば、障害をサポートしてもらいながらも旅行に連れていってくれるところにお願いし、日帰り旅行に夫婦で行ってもらったり。
まだ外食できるうちに、父が食べたいと言った熟成肉のお店に家族で行ったり。
母の用事があるときにはわたしが父を見たり、逆に母の用事を代わりに引き受けたり。

特別なことはしていない。
ただ娘として、ごく当たり前のことをしたまでだ。
むしろ、病気がわかるまで、家族との時間を蔑ろにしていたことに気づいた。

父は、ALSと診断されてから約1年でその命に幕を下ろした。
人工呼吸器も胃ろうもつけない、もし何かあっても延命措置は受けないと選択をした。
より長く生きるよりも、最期まで大好きな美味しいものを食べ、自らの声でわたしたちと会話を交わすことを選んだのだ。

生きるってなんだろう。

医療者でありながら、その根源的な問いに今まできちんと向き合ってこなかった。
いや、医療者であったからこそ、医療の使命は「より長く生きること」だとどこかで思っていた。
命はすべて尊い。どう生きるかは本人次第だが、死んでしまったら選択肢がすべてなくなってしまう。
道を閉ざさないためにも、命をつなぐことは必要なのだと、そう思っていた。

でも父の生き様を見て、人生を全うすることは、長く生きることだけではないと実感した。どう生きるか。その人生の密度は、自分で決められる。

本当は何をしたいのかを考え直した30代

父が亡くなり、すぐに海外の道へ自分の進路を戻すこともできた。
でも、身近な人の死は、わたしの意識を変えた。

今までは、どこか遠くを見ていた。遠い国の知らない子どもたちに想いを馳せ、その子どもたちを直接自分の手で救っていくことが使命だと思っていた。
もちろんそれも立派な志だ。あの頃の、マグロのように常に動いてギラギラしていた自分も好きだし、背中で受ける応援も嬉しかった。本当にたくさんの方にお世話になり、心から感謝している。期待に応えたい気持ちもたくさんある。

ただ、遠くを見すぎて、足元にある大切なものが見えていなかったのではないだろうか。
身近な人が亡くなったときに、後悔なく生きているのだろうか。
自分が死ぬときに、心から楽しいと思うことをやり切ったと感じられているのだろうか。

すぐに海外に行くのではなく、少し考えよう。
改めて、自分が理想とする世界、つくっていきたい世界を言語化することにした。

国籍、性別、年齢など、あらゆる枠に関係なく、わくわくに満ちたカラフルな世界

この世界をつくるために、わたし自身が自分らしくいたい。
もっとわくわくしていたい。

だからわたしは、自分が心から好きだと思うことを、どうしようもなく惹かれてしまうようなことを、思う存分やってみたい。
自分勝手だと思われるかもしれないが、自分がとことん満足するものをつくりたい。

やりきった。

薬剤師になって10年。父の死からもうすぐ5年。
東京に戻ってからも、薬局で薬剤師として活動をし、在留外国人向けのプロジェクトチームを立ち上げ、国内でも国際協力に携わってきた。
新聞掲載や書籍の出版など、側から見たら華々しいと言われるような功績も残してきた。
(ちょっと自慢。光栄なことに、HPのトップの写真を飾らせていただいていた......!)

もう、薬剤師はやりきった。
自分の中で、そう思えるまで走り抜けた。

これからは、薬剤師を活かすことにこだわるのではなく、
絶対に薬剤師以外の道で生きていこうと肩肘張るのではなく、
あくまでも、今までの経験を積み重ねた「廣瀬明香」として、生きていこうと思う。

今、わたしがつくりたいもの。
それはまた長くなるので、今度noteに綴ることにする。

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