世のため人のためにならないことばかり好きになってしまう

表題、以前からふと気分が落ち込むと考えてしまうことだ。


「世のため人のために」というのは子どものときに入っていた合唱団の先生が事あるごとに口にしていた言葉。

そんな殊勝なことを常に意識しているその先生のような人は稀だとしても、自分も将来は何か世の中のためになるようなことをしていこうと漠然と思っていた。


かるたと読書がずっと好きだった。

どちらもそれなりに時間とお金を費やした。

かるたが強くなっても、面白い小説をたくさん知っていても、世のため人のためにはほとんどならない。

でも趣味だから別によかった。


今度は麻雀。

これもちょっとやそっとでは世の中のためになんかならない。

だけど仕事にしてしまった以上は、この業界の中でなるべく世のため人のためになるようなことをしなければならないのだと思う。

それがなかなか難しい。

下手さを痛感したり(毎日)、お客さんとうまく話せなかったりすると、自分が本当に無価値な人間のように思えてしまう。


もっと強くなりたいと願ってがむしゃらでいられるときは、それが世の中のためになっているのかどうかはさほど気にならない。ここ数日ふと虚無感に襲われてこんなことを書いている。


以前noteにお仕事帳というものを(上)と(中)まで書いた。しかし(下)を書けずにいる。(下)の内容は数年前まで働いていた新聞社のこと、それから現在の麻雀プロのことになる予定だ。

新聞社時代のことは書きたいことは結構あるけれど、Twittterに先輩社員だった方が何名かいて読まれるのがこっぱずかしい。

そして麻雀プロのことは、まだ仕事として書くに足ることを何もできていない気がして書けない。すでに報酬をいただきながら活動しているのだから、こんな甘いことを言っていてはいけないのに。情けない。努力不足。


そもそも麻雀プロになったのはただ自分が麻雀の勉強をしたかったからだから、それで世の中の役に立ててないっつって病むのは結構筋違いなんだけど、できれば必要とされたい、どうすれば、みたいな。

まあこれ投下したらまた天鳳打つし夜は勉強会だし明日は対局だしってやってる間にモヤモヤも忘れてしまうでしょう。

なんか、たまーに来るんだよね、自分の存在意義を疑っちゃうとき。

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