”当たり前”解剖
タイトルに書いた通りである。
”当たり前”とは我々が作り出した偏見だ。
”当たり前”
我々は、”当たり前”を持っている。
たとえば、人間についての当たり前。
人間は、言葉を話し、二足で歩き、食事を口から食べ、目でものを見る。そして大体手が二本あり、足も二本ある。
人間=大体こんなもの=”当たり前”の人間
”当たり前”はこうして生まれる
”当たり前”は、その人の経験によって生まれる。
「生まれた時から、これまでに見た人間の多くは、大体こういう特徴を持っていた。」
「だから、人間とはこういうものだ。」
つまり、
当たり前の根拠=自分の経験の積み重ね
”当たり前”が”偏見”になるとき
人間とは、そんなに同じか。
たまに、”当たり前”じゃない人間がいる。言葉を話せなかったり、車いすで移動していたり、食事を管からとったり、目ではなにも見えなかったり。腕が一本なかったり、足が一つもなかったり。
彼らは”当たり前”ではない。
なぜなら、”大体こんなもん”に当てはまらないから。
そんな時、彼らは”障害者”と呼ばれる。
”当たり前”=健常者と比べられて。
”当たり前”はそんなに絶対か
当たり前の根拠=その人の経験の積み重ね
では、生まれた時から周りに、”障害者”しかいなかったら?
その人は、健常者を”障害者”と呼ぶだろう
当たり前(当然)は、脆すぎる
”当たり前”=偏見
健常者も障害者も、完全も不完全も、人間には存在しない。
偏見である。マジョリティからの”決めつけ”である。
数は一般を証明などしない。”当たり前”という偏見を作るだけだ。
我々は、偏見に気づかなければならない。”当たり前”はいつか、すべての人を傷つけるから。
スピノザは私にこう思わせた。
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