私の育ち② ~遊びたおした小学生まで
私の原風景、一番古い記憶はインド洋の海岸である。
素晴らしい白浜。
父の転勤でケニアに行き、いつも社宅の子供たちで
白浜を駆け回り、穴を掘ってはヤシの葉をかぶせ、
逆カマクラを作り、中に入って遊んでいた。
その頃幼稚園生の私は大勢で遊びつつも、
一人でパズルをしたり本を読むのが好きだった。
記憶にないが、英語で本を読んでいたらしい。
ところが、強烈に記憶に残るのは、
社宅で親が仲良くしていたS家の書棚にあった、
名作『愛と誠』(マンガ)を入り浸って読んでいたことだ。
幼稚園生の読むモノか!?
そのおかげで、私はストイックな恋愛しか受け入れられず、
くっついては離れ、という恋愛モノは放り投げたくなる。
これはずっと変わらない恋愛観。
おまけにヤンキーモノが大好き。
(東京リベンジャーズ、ビーバップ、ハイアンドロー、OUT等)
三つ子の魂、恐るべし。
帰国したのは小学校1年生。
ところが3年生で今度はシンガポールへ。
そこは日本人学校だったが、粒ぞろいの優秀な先生がいたことが印象的。
「君はできる子だよ」と言ってくれたT先生にもう一度会いたい。
今まで会った中で好印象の先生は3人しかいない。
5年生で帰国すると、物珍しさからか、
男子全体からのいじめが始まった。
上履きや防災頭巾が毎日のようになくなる。
「〇〇菌」と呼ばれ、触ったものを避けられる。
母も一度学校に相談に来てくれたが、心配はどれほどだっただろう。
ところが、女子全体が私の味方であった。
私はその頃は活発で、女子たちと、防災頭巾を取った男子の家に乗り込み、
「返してください」と物申した。そうこうするうち、いじめはなくなった。
凹むことなどなかった。
学校に味方がいること、これは何より心強い。
家庭内は「私の育ち①」でお話したように夜は大喧嘩の毎日だったから、
私は昼間憂さを晴らすかのように毎日男女問わず友達と
外や家で活発に遊んだ。
この頃は勉強も運動も出来てオールAだった。
次女で要領も良かった。
父は勉強についていけない姉の方ばかりに目が向き、
頭をこつきながら勉強を教えていた。
私は監視の目から免れた。
その頃男女大勢で遊んだこと、女子同志で遊んだことは大切な思い出。
唯一、この頃に帰りたい。
親友のTちゃんが「もし私が男で結婚するならK(私)がいい」と言ってくれたことはずっと心の支えになっている。
私は性格が良かった。(自分で言う?爆)
いつも学級委員に選ばれ、公平に誰とでも遊んだ。
楽しかった小学生時代。
学校で傷ついたとすれば、朝練で合唱に通っていたのだが
ある日 合唱の先生が
「T君とKさん(私)、前に出て発声してみて」と呼んだ。
私たち二人は、順に発声をさせられ、
「T君がお腹から声が出ていていい例です。Kさんは出ていません」
と公開処刑^^; された。
それが今でもトラウマでカラオケは歌わない。
今その先生に会ったら言ってやりたい。
どれほど私の人生から歌を遠ざけたかを。
あと卒業写真の撮影時、担任に
「Kさんは歯並びが悪いから口を閉じた方がいいわね」と言われたこと。
確かにそうかもしれない。
その後、私は写真では笑わない。
笑う時は手を口に当てて笑うようになった。
傷つけたのは大人だけだった。大人はなんて鈍感なのだろう。
先生は自分の発言、行動をよくよく注意して接してほしい。
どれほどの影響力があるかを知ってほしい。
そんなことはあったが、友達がいたこと。
それで大抵のことは乗り越えられる。
小学校は一番楽しい時期だった。
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