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手を繋ぐ記憶と

9年前。職場で自分の無能さを痛感する日々がひと月を迎えた頃に、彼女は新入社員として入ってきた。

はじめの印象は「暗い」「カバみたいな顔」「仕事できなさそう」と、およそ好印象とはかけ離れていた。1か月も叩きのめされているのに、すぐ人を見下す僕である。

しかし、彼女はすぐに仕事を覚えた。施設の利用者との関わり方も自然で、細かい気配りができていた。一方で相変わらず僕は怒られ続けており、その差は歴然であった。
恥ずかしかった。何の気なしに棚に上げた無能さが、ゴトンと頭の上から落ちてきたようだった。
これをきっかけに好きになったわけではないけど、僕はもうすっかり彼女を尊敬していた。

そのうちに、彼女はいい匂いがすることに気づいた。
そうそう。結婚した今、おんなじ洗剤を使ってるはずなのに、なぜか彼女の服だけいい匂いがする。実は休みの日に洗濯機をまわす前、ブラジャーの匂いをこっそり嗅いだりしている。
話がそれた。とにかく、そこからすこし好きになりはじめたと思う。

友達にも「職場の〇〇さんが可愛い」「〇〇さんがちょっと気になる」と話し始めていた。でも、この時は冗談半分で、恋というほどではなかった。

3年がたち、僕は他施設へ異動となった。それからしばらくして、彼女が辞めるらしいと耳にはいる。
僕の気持ちを知る同僚からは「とにかく飯に誘え」とお叱りを受けたが、こちとら24年間童貞をこじらせてきてるのだ。半端なことでは動けない。

やがて、僕の中での問答が始まった。

「自分は〇〇さんのことが本当に好きなのか?」「あっちは33歳だぞ。9歳差ということを理解できているのか?」「もっといい女性が現れるのじゃないか?」

あれこれと考えて出た答えは「あれほど純朴な人はもう現れない」というものだった。彼女と深く話したことがあるわけでもなかったけれど、感性がそう訴えていた。この時から、僕は完全に、はっきりと彼女が好きになった。

そして、送別会の日は来た。

彼女がトイレに向かったのを見て、僕もトイレに向かう。洗面台の前で、じっと待つ。なんだかオシッコがしたいけど、だめだ。いま行っちゃいけない。

隣から水の流れてくる音が聞こえる。来る。心臓がドキドキする。

隣から扉の開く音が聞こえる。来る。行かなきゃ。
ゆっくりと歩きだす。

「あの・・・○○さん」

「はい?」

「・・・ちょっと本気で言ってるんですけど、今度ご飯にでも行きませんか」

「おぉ・・・わ、わかりました」


―やった!やってやった!
僕は心の中でガッツポーズをして席に戻った。もしかしたら実際にしてたかもしれない。
それからはもう、喜びに浸って酒を飲んでいた。

しかし、やはり僕は臆病者だった。

飲み屋のトイレで勇気を使いきった童貞に、再びメールで日程を決めるほどの勇気は残っていなかった。
それからというもの、うだうだ悩む毎日。見るに見かねた同僚が僕の尻をペンペン叩いた。

「あーもう!○○さん、フェイスブックで登山の投稿してたろ!?俺らがハイキングの企画してやっから、お前がそれに誘え!」

なぜか怒ってたけど、おしりは腫れない優しいペンペンだった。いまでも感謝している。
ここまでしてもらってモジモジしてては男がすたると、僕は再び勇気を振り絞った。いや、とうに男は廃れきっていたが。

丁寧な誘い文を送って、携帯を握りしめる。

ピコーン!着信音が鳴る!瞬間、ガンマンもびっくりなスピードで僕はメッセージを開く! 


「その日は無理なんですが、前にぴぴぷるさん食事に誘ってくれていましたよね?良ければ今度どこかへ行きませんか?」


・・・廃れきっていた「男」が、風にふかれて塵と消えていくのを感じた。彼女の優しさに頭が下がるおもいだった。

かくして、初デートを迎えた僕。緊張しながら、持てるエピソードトークの数々をこれでもかと披露していった。その内容はどれも初デートにふさわしいものじゃなかったけど、とにかく僕は必死だったのだ。

やたらとムードを作られるのは彼女は苦手らしく、奇跡的にうまくハマっていた。運命を感じる。

デートの終わり際は「緊張したぁー!」と叫んでばかりいた。「そんな風に見えなかった」と彼女は笑っていた。

そんなこんなで何度かのデートを繰り返し、12月のはじめごろ、ダイニングバーでお酒を楽しんでいた時のこと。彼女はいきなり爆弾を放り込んできた。


「ぴぴぷるさんは、なんで私を誘ってくれるんですか?」 


頭の中で無数の僕が緊急会議をはじめたが、みんな言葉になっておらず、混乱するばかり。

なんだ!?告白しろってことか!?好きって言っちゃえばいいのか!?

迷ったあげくに、僕は言った。 


「えっと・・・あのー・・・ 好意をもっているからです


カヲル君かよ。

彼女がどんな答え方をしたかはあまり覚えてないけど、その後の出来事をひとつ、よく覚えている。

それは店を出てコインパーキングへ戻る途中、「えいっ」と彼女が手を握ってきたこと。その時の彼女の嬉しそうな顔。手の柔らかさ、温もり。

深夜、メールで「クリスマスにちゃんと告白します」と伝えた。


当日。初めて女の人と過ごすクリスマス。
再び言い出す勇気が持てず、レストランでただ時間ばかりが過ぎていった。
意を決したのはデザートが運ばれた後くらいだっただろうか。

好きになった経緯をすべて伝えた。
けれど、なにも言わない彼女。

しびれを切らし、両手を差し出し俯いて僕は言った。


「僕と付き合ってくれるなら右手を、ダメなら左手を握ってください。」


・・・幾らかの時間が流れた後、彼女は右手を握った。

歓喜し顔を上げる僕。見れば、今度は彼女が恥ずかしそうに俯いている。

あれほど愛しいと呼べる姿を、僕は見たことがなかった。
そして僕たちは、恋人になった。




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