見出し画像

感想 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の行ったこと

シン・は何をしたのか

 長く続いた『エヴァンゲリオン』シリーズが完結を迎えたが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン・』)は何を行ったのか。新劇場版シリーズは、『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『新世紀』)のリビルドであり、そして『シン・』はそのリビルドの結末であり、エヴァの最終的結末である。

 「我々は(三度)何を作ろうとしているのか」、とは庵野秀明の新劇場版にあたっての所信表明である。リビルドは何をしたかったのか、何故リビルドされたのか、そのことを『新世紀』即ちリビルドされる素材との対比で考えたい(ただし、幾つかの感想を、多少の共通点で接着したものであるから、本稿は、明確に一貫した筋書ではなく、断章の様になってしまっている。それは申し訳ない)。

 そして、それらは端的に言えば、コミュニケーション不全で伝わらなかった『新世紀』のメッセージを正確に伝え、さらに当時は伝えることのできなかったメッセージで、それを補強するということではないのだろうか。

卒業式

 伝わらなかったことを伝える。それは何だろうか。それは、他者との関係論であり、現実へ帰ることである(ただし『THE END OF EVANGELION』(以下『EOE』)において、それは既に示されていた。「僕一人の夢」の否定。「夢は現実の続き」「現実は夢の終わり」)。そのために今までの全てを見直して、総括し、送りだす必要がある(新劇場版)。全ては、20数年前になされなかった、卒業式行うための手段である。卒業式こそが、『シン・』であり、そのための『3.0』までであり、『+1.0』である(どこからが+1.0かは後述する)。

 本稿では、全てを卒業式のための材料として、『シン・』を考えていきたい。

1.自己・他者・相補

他者との関係論

 あらかじめ述べれば、『エヴァンゲリオン』における存在論や関係論(英米系のontology や欧州で展開される思想と比して、それほど精緻ではないが)は次のように分類できるだろう。

1 鬱・全ての否定
 『新世紀』で特に描写される、他者の存在による苦痛、同時に自己の存在による苦痛。それらすべてをなくすために、自己含む全てを否定するという段階。『EOE』においては、精神分析の用語を用いて、ディストルドーと表現さた。無への志向(ただし、エヴァ世界では完全なる無へと至ることはできず、自他の区別のつかない状態への移行に留まる)。

2 自己措定のための他者存在
 主観的観念論的な自己と他者の措定。自己(自我)が存在するが、自己は自己が自己であるだけでは自己であることができないため、他者(非我)を措定し、自己(自我)をより強固なものとして措定する。TV版26話、『EOE』にて、自己が存在するために、そして他者いてもよいとして、このような認識がなされる。ただし、単純な他者肯定ではなく、それは主体が存在するための、あるいは主体が望む限りの他者の存在の要請だろう。『EOE』のラストシーンにおいて、視聴者からすればシンジとアスカのみが、世界に既に存在することが示されるが、シンジの主観では、シンジがまなざすことで、アスカという他者はシンジに認識される。つまり、シンジがまなざすまで、アスカはシンジに認識されていない。そして、初めに認識した他者が、補完の途上で、最もシンジに対して否定的であったアスカであった。それは、自己が存在するとは、同時にどうしようもなく自己に否定的な他者が存在することを示す。それ故に、その存在に気付いたシンジは衝撃を覚える。そしてある種の絶望を感じながらだろうか、再び他者の存在を否定しようとする。

3 常に既に他者が存在するということ
 破局・全ての後(インパクトの後)、シンジが目覚めると、そこには他者が在る。シンジがまなざさずとも、他者が在る。『エヴァンゲリオン新劇場版:Q』での、シンジの目覚めであり、そして最後にそれは、マリの「だーれだ」に結実する。シンジが認識せずとも、そこには既に他者が存在する。ただし、これでもまだ自慰から抜け出せない。

4 自己もまた他者に対して他者であると認識すること。「大人」になるということ
 鬱を超え、主観的観念論を超え、所与的な他者論及びその絶望を超え。『シン・』のラストで、シンジに対してマリが在るが、それは常に既に世界に他者が存在するということだ。そしてマリが、シンジを承認し、手を差し伸べる。シンジが、アスカ、レイ、カヲルに手を差し伸べたように、マリもシンジに手を差し伸べる。しかし、シンジはそれに対して、所与のものに対して、自身もまた手を引く。相補性。自己措定の手段として否応なく他者が存在する絶望でもなく、常に既に他者に対象化されるような主体が他者にとっての他者性を発揮しないような、ある意味他者への一方的自他関係でもなく(つまり一方的で閉じた関係性ではなく)、自己もまた、ある他者即ちある存在者-その者が自己を主体と認識するような-に対して他者であるということ。それが人と人の関係であり、自慰ではない生である。それが、『+1.0』である。

『NEON GENESIS』『1.0』『 2.0』『 3.0』-絶望と憂鬱の円環-

 本稿冒頭で述べた、『エヴァンゲリオン』における他者との関係論にて、次のような円環が考えられる。

鬱・他者の否定→しかし他者の非在は、自己の非在となり、それは拒絶する→自己が在るために、他者の存在を認める→しかし、それは、独善的であると他者に否定される→他者を所与のものとして認める→しかし単なる独善(自慰)の否定としての他者肯定は、他者に何らの価値を見出さず、結局他者は不愉快な何かとなる→再び鬱・他者の否定

 物語上の流れで見れば、次のように表せる。

所与の存在としての他者(他人の言うことを聞くだけのシンジ)→しかし、その他者が自己を否定し、傷つける→鬱・他者の否定→自己存在のために、他者を認める→しかし他者へのある種の軽視は、独善だと否定される、あるいは独善の否定→所与の他者の肯定→......

 『新世紀』と新劇場版を内混ぜにしているところはあるが、その問題はゲンドウがEOEへ言及をすることから回避できると考える。

 『新世紀』を例に見れば、第3新東京市に来たてのシンジは他者を所与のものとしている。しかし、シンクロ率が上がると度々、プラグ(=母の胎内)に溶けていることから心の内には、無への回帰という志向が存在する。そして、周囲の環境が変節し、他者との軋轢や距離感が生じていくと、シンジは一層他者への恐怖を強め、事物への否定性を強める(具体的には22話以降)。最後はカヲルの殺害をもって、『EOE』においては、完全に鬱・(自分を傷つけるような世界という)他者否定へと至る。その後補完が始まり、例え傷つくことがあってもやっていけるとしたシンジは、アスカに出会い、首を絞める。

 新劇場版ならば、所与の他者という段階はそのまま、次に他者に働きかけるも(自ら行動してみるも)上手くいかないということが発生する(ニアサーからQ)。そしてすべてに絶望し、鬱となる。

 ただし我々が『新劇場版』としてみた『エヴァンゲリオン』は、円環が終わる『エヴァンゲリオン』であるから、様々新世紀と異なり、例えば鬱からの自己措定は、道具的な他者措定を辿らない。シンジは、僕は僕だという措定で、鬱から立ち直るのではなく、他者の存在と価値を認め、他者の存在を憂鬱とは結び付けない(「どうしてみんな優しいんだよ」)。

 更に加えれば、円環として、捨象しているためにわかりづらくなっているが、実のところ所与の他者という状態が『新世紀』、新劇場版問わず最も長い。その中で如何にして、当たり前に存在する他者と関わるかが問題であり、それはQのカヲルとの連弾のシーンで語られるように、何とかやってみようとして、失敗して、その反復である。碇シンジは、常に他者がいる世界で、どうにか生きてみようとはしているのだ。ただその度に上手くいかないが。そのシンジの反復に、上手くやる糸口がある。

 この円環から抜け出すためには、他者の存在の肯定のみならず、他者と触れその価値を認め、接触によって傷ついても進むという覚悟が必要となるだろう。何故なら、独善にならないための他者肯定では、他者に価値は生まれず、容易にどうでもよいもの、否定される存在へと転化し得るからだ。非常にありきたりだが、他者を大事な存在と認め、共に生きていくという覚悟、これが必要となる。作品内では、端的に「相補性」と表現される。

 『EOE』と『シン・』は、視聴者次第で容易に評価の逆転する作品かもしれない。つまり、絶望の円環にある人間にとっては、『シン・』の行っていることはただの希望の押し付けに過ぎないのだろう。しかし、彼らは、永遠に絶望の円環にい続けるつもりなのだろうか。実は信奉される『EOE』にしても、レイとカヲル、彼らは、人が分かり合えるかもしれないということの象徴であるとされる(「好きだという言葉とともに」)。他者は分かり合えなからこそ、他者だが、生きるにあたって僅かな希望はある。それを『EOE』では示しきれなかった。それをシン・では、些か大仰で雑なところはあったが、積極的に示そうとした。

マリとは誰か-シンなる他者-

 新劇場版からの、新キャラクターである、真希波・マリ・イラストリアスはどこかやってきたのだろうか。そして彼女は如何なる存在なのだろうか。作中での描写からすれば、世界の仕組みやルールについて、円環を繰り返してきたカヲルレベルに情報を知り過ぎている。マリが、『新世紀』からの分岐(空から降ってきて打つかることで、トラックは27へと進む)を起こし、そして誰もなさなかった、なせなかったシンジへの救出を行おうとする。そして、繰り返してきたカヲルのなせなかったシンジの幸せは彼女がなす。これは、異常だ。ゲンドウへの言動は兎も角、ストーリーへの俯瞰的観点は、ある作品世界に留まるものではない。

 『エヴァンゲリオン』には、幾つもの世界があったことが示唆されるが、少なくともマリの登場したある世界(新劇場版)において、『エヴァンゲリオン』の円環は終わる。これは、マリが作品にとって、外的な要素であることを示しているのだろう。つまり、旧来の『エヴァンゲリオン』の円環においては、前述の円環含め、作品は無限に消費される続けるのだ。レイ・アスカ・ミサト・カヲルがシンジを救い、円環を終わらせることは、『新世紀』の終了以降不可能になってしまったように思える。というのも、彼女らは視聴者によって、二次創作的に、あるいは想像的に消費され、最早作品のキャラクターではなく、視聴者と共有された存在となってしまったからだ。かつて『新世紀』において、究極の他者であったアスカは、最早他者にはなりえない。なぜなら、もう既に、シンジ、あるいは『エヴァンゲリオン』という作品に外部性として登場してしまったからだ。彼女は、『EOE』のラストにおいて、究極となり、そして『エヴァンゲリオン』という作品の内部に包含されてしまった。それ故に、最早他者として機能しえない。だからこそ、新たなる他者として、それを終わらせる存在こそが、マリであるということだ。

 では、マリは何処からやってきたのだろうか。「現実に帰れ」というメッセージが、半ば失敗に終わった『EOE』から、現実に返すには、正しく『エヴァンゲリオン』にとって外部である現実からやって来た存在でなければならないのではないだろうか。『エヴァンゲリオン』という作品に予め存在したキャラクターではなく、外部から到来した存在が、『エヴァンゲリオン』においてある一定の変状となった姿が、真希波・マリ・イラストリアスではないだろうか。下手に「イスカリオテのマリア」などと言葉遊びをするから混乱するが、ストーリー内での役割はその時々の役割であって、作品やそれが提示するものにおける役割とは必ずしも一致しないと考える。強いて考えるならば、形而上生物学の冬月研究室所属していて、ユイに思いを寄せる後輩であり、それ故に、その遺児であるシンジに対して、欠けた母の役割を担い、彼を成長させようとしているのだと理解することはできる。

マリは「理解のある彼君」・デウスエクスマキナミか?

 マリは当初からシンジの救出を目的としているように思えて、そしてシンジの成熟を促しているように思える。たしかにシンジが上手くやっていくには都合の良い存在だが、シンジが弱さを認め大人になるのは、マリがいたからではない。むしろマリと会わない間の、第3村での経験からである。マリは、「理解のある彼君」のように、突然どこからか生えてきたが、しかし「理解のある彼君」のように全肯定botではない。当然、「理解のある彼君」とは自己に都合の良い他者という意味ではあるだろうが、どの視点で見た際の都合の良さだろうか。結論から見ればマリの行動はシンジの成熟を促しているが、各時点で見ればマリはシンジにとって必ずしも都合のよい存在ではない。

『+1.0』-シンなるNEON GENESIS-

 既に論点を述べてしまっているが、『シン・』において示される他者との関係論は、『EOE』よりある種更に進んだ段階であるというのが、本項の主張である。『EOE』においては、凡ゆる苦痛からの離脱として、他者を否定するが、しかしそれでは自己もまた存在することが叶わない。自己が自己である為に、他者が存在することを認めなければならない。しかし、そのようなエゴイスティック・自慰的な、道具的他者措定に対して、アスカという強力な他者から「気持ち悪い」という否定がなされる。つまり、オナニーではならないと。道具的自己措定は、脆いだろう。それは、他者ではなく自己を目的としているのだから、都合の悪い他者は、自己を傷つけるものとして殺意の対象となり、抑うつ的な気分と共に他者全てが不快な存在と認識されるならば、再びすべての否定と自己の消失(無への回帰)へと至る。

 『EOE』の結末において、「気持ち悪い」と否定される、他者への関係性。それは結局自己が存在するための他者であって、それは否定されるということだ。加えて言えば、アスカによる「気持ち悪い」は、シンジの態度のどこまでの否定であったかという問題はあるが、アスカがシンジを真にどう捉えているかを別にして、表面的な言葉から独善的にアスカを否定的な存在だと決め付ける、シンジの態度もそうだろう。どちらにせよ、「気持ち悪い」とは他者との関係において独善であることの否定である。

 『+1.0』と、作品名として表記しているが、それはNEON GENESIS として作り直された世界も、一つの作品であると解釈するのと同時に、それまでのエヴァンゲリオンとは、異なる作品・状態へと至ったからと解釈するからだ。具体的に、どこからが+1.0なのかという問題があるが、(視聴者にとって)新たな物語の始まりたる『ヱヴァンゲリオン新劇場版:序』において、『1.0』という題は既に使われており、シン・において、新たな世界の創生を試みる描写がなされることから、新たな世界として、シンジが宇部新川駅で意識を戻すところ以降が真に『+1.0』なのだと解釈したい。そうでなければ、わざわざ『3.0+1.0』とされ、今までの世界を描写してきた意味はなく、そして全てのエヴァンゲリオンに別れを告げる意味もない(シンジが『エヴァンゲリオン』を終わらせる段階では、まだ『エヴァンゲリオン』の範疇にあるからだ。『+1.0』はもう『エヴァンゲリオン』ではない)。

 本題に戻れば、『+1.0』は更に進み、自己の為の他者存在という観念は既に存在せず、他者は常に既に存在するものである。これは、シンジがまなざさずとも、目覚めと同時に他者がシンジへと干渉することに表されるだろう。そのことに『+1.0』のシンジは絶望しない。ともすれば、臆病でコミュニケーション不全な人間は、そのことに絶望しがちだ。ああ結局他人がいるしかないのかと。しかし、シンジはそれに絶望しない。それは、シンジが経験から、「気持ち悪い」と言われず、しかして人の間で生きる在り方は、「共同」しかないと知ったからではないだろうか。つまり、「補完」などせずとも、彼はリアリティーの中で欠けたものを埋めたからではないだろうか。欠けた心にイマジナリーをどれだけ注いでも、それはイマジナリーでしかない。不意に、それが空虚で、心が少しも埋まっていなかったのだと気づいてしまうかもしれない。

 つまり、凡ゆるものの否定という鬱でもなく、道具的他者措定でもなく、しかしながら他者になされるがままの主体でもない、正しく相補という人の在り方が示される。

 ところで、前者2つはともかく、自慰ではないという点で、所与のものとしての他者の受容は問題なのだろうか。これもともすれば、ある種の独善的態度になるだろう。何故なら、他者を所与以上のものとしなければ、即ち自己が働きかける対象としなければ、与えられた情報からのみ他者を構成し、それによって他者との図式を構築する可能性があるからだ。つまり、他者の存在を自己と切り離して認めたところで、自己が他者へとアクセスしないのであれば、それは自慰なのだ。勝手な思い込み(他者とのディスコミュニケーション)とそれによる鬱へと転化しうる状態だ(破とQでのシンジの行動とその反動は正しくそれを表している)。ならば、結局のところ、「愛」という言葉を用いずに、ニヒリズムとアナーキーに陥らない術とは、「共同」(相補性の肯定)しかないということではないだろうか。「健全」な結論である。Aパート、第3村は象徴的だ。

 『新世紀』・『EOE』を超えるためには、そして『エヴァンゲリオン』からの終焉・卒業を行うためには、かつて示した在り方を超える必要がある。常に他者(これは世界・他人・好きになれない自己を含むものとして)に恐怖し、それに絶望する在り方では、一体何ができるだろうか。

 確かに、我々は分かりあえないのだろう。他者は、我々を傷つけるだろう。しかし、それでも現実に、他者は我々に先行して存在しており、それら現実に全てを滅ぼすことはできない。それをすれば、自己もまた消えてしまう。ならば、結局のところ「ヤマアラシのジレンマ」、都合の良い距離を認めるしかない。そもそも語義からして、他者とは掴み得ない対象である。それが把握できてしまえば、他者ではなくなる。それができないからこそ、他者は他者足り得る。分かり合えなくとも、どうにか人と生きていくしかないのだろう。分かり合えないということは事実であるにしても、それを前面に押し出してしまえば、それはニヒリズムであって現実に生きることではない(ではイマジナリーに生きるというのはどうだろうか。これは後に検討するが、確かにリアリティーだけでは人は生きられない)。あるいは更に発展させれば、ニヒリズム・ペシミズムを踏まえても、自殺か生きるかしかない。

 ここで生が問題となるが、その生とは他者と自己が存在する以上、共同するしかないのだろう(「相補性」のある生)。その程度に差こそあれど、人は共同するしかない。それこそが、自慰を否定した『EOE』の先にある、実践であるし、そのような帰結でしか、『EOE』は乗り越えることができない。その呪縛・円環から解き放たれることはできない。

 『シン・』は、希望まみれではない。明らかな『EOE』へのオマージュがあり、鬱と他者への恐怖という絶望を踏まえてもなお、進(シン)むしかなく、その形は、他者を承認し、また自己も他者に対して他者であるという自己認識を以て、程度の問題はあるにせよ、社会性を得るしかないということなのだと考える。(『EOE』の時点で、傷ついても前へ進むということは示されていたが、結末は恐ろしいほどに破滅的であった。ここに、絶望と希望の矛盾があり、多くの人間は、それを共に受け止めることはできなかったのだろう。)

 エヴァンゲリオンを好むオタクには、恐ろしい結論だ。それが出来ないから、あるいは受け入れられないからこそ、エヴァは傷のある作品として、実存的な受容がなされてきたのだろう。しかし、いつまでそれに拘泥するのか。人の生は、イマジナリーだけではない。だから、リアリティーに戻すために、卒業をするために、『EOE』とは少し違う他者論を、『シン・』は示したのだろう。

2.表現の変化

父殺しを超えるー「共同」のための準備ー 表現の変化1

 ユイ(自身の母)・レイ(人類の母)とともに、無限の記号を型取り、永遠・無限となったエヴァンゲリオン初号機のある『EOE』。それは、エヴァンゲリオンという母が遠ざかることで、しかしてそれは永遠になることで、決して辿り着けない対象、別れを告げなければならない対象となったことを示すだろう(「母にさようなら」)。

 だが、『EOE』においては、父は、オイディプス的に殺されるに過ぎない。最初の他者は母だが、その母を巡り、父と子は争う。しかし、それでは子の、他者への解放性というものは限られる。母という肯定する他者のみが必要なのであれば、母性に縋るしかない生であり、主体は母の庇護下で、自律性を持たない主体未満の存在のままだろう。父にとって母とは女であり、その女の姿は、子を男として否定しかねないもので、それ故、不安な子は、女としての母を殺すべく、それを顕せる父を殺そうとする。だから、親離れにおいて、母に守られ他者から傷つけれられないという全能感からの離脱において、父を殺してしまったのでは、他者と向き合うことができない。自己を無条件に守る程度の他者しか(それは真に他者なのだろうか。それ故に、シンクロすることができるのではないだろうか)、認めることができない。それは、さまざまな他者が存在する世界において、極めて強度の低い主体送りだすこととなる。自分を傷つけない、創作的なキャラクターや母性しか認めることのできない主体。

 だが、『EOE』のラストには、自分を傷つけるかもしれない他者(「惣流」アスカ)が登場する。その前に、シンジは首を締めることしかできない(=否定をすることしかできない)。これではいずれ、他者とのディスコミュニケーション、その極地として再び補完に至るかもしれない。しかし、『EOE』は補完を否定する。ならばこそ、『EOE』は不完全な親離れを描いてしまう訳にはいかないが、描いてしまった。

 父という他者を、暴力でもって殺すのではなく、母を巡り競合する似通った者として、その存在を認める。このことが、主体が真に親離れするのに必要なことではないだろうか。都合の悪い他者を殺すのではなく(cf.『無限のリヴァイアス』のファイナ)、認めること。それは必ずしも好きになることではない。完全に理解し合うことは不可能であっても、理解し合おうとすることは可能だ。『EOE』のシンジとオーバーラップするゲンドウは、シンジとコインの裏表だろう。分かろうとしなかったかつてのシンジ、そしてそれが歳だけをとった姿としてのゲンドウ。それに対する、14歳の心を持って、そのことを、『シン・』は描いた。親離れを完足的なかたちで。

 ここにおいて、父も母も、子を見送る永遠となって離れていく。それはユイとゲンドウがともに槍に貫かれるシーンに表される。では、かつてシンジを見送り、遠くから見守ることとなったエヴァンゲリオンはどうなるのか。『EOE』では、初号機は永遠となり、宇宙をただよった。しかし、『シン・』では、全てのエヴァンゲリオンに、シンジは別れを告げる。エヴァンゲリオンは、シンジを見守ることはないのだろうか。

 それは違う。言葉遊びのようだが、エヴァンゲリオンは、エヴァンゲリオンという具体性を持った現実的存在者ではなく、理念としてシンジを見送る。母の肉体としてのエヴァンゲリオンではなく、シンジがかつていた世界としての『エヴァンゲリオン』が、シンジを見送るのだ。シンジとマリには、エヴァの記憶がある。それはDSSチョーカーの扱いから分かるだろう。彼らは『エヴァンゲリオン』という電車どころか、駅からも出て行く。それは『エヴァンゲリオン』という円環からの離脱であり、現実への移行が、彼らのなすべきことということだ。『エヴァンゲリオン』は、昔そうだったものとして、記憶からは消えないだろう。しかし、それは現実を支配するものではなく、現実に生きることが第一で、『エヴァンゲリオン』は思い出になるに過ぎない、だが、しかし、『エヴァンゲリオン』がなければ、彼らが現実へと走って行くこともなかっただろうし、その限りでやはり『エヴァンゲリオン』は、彼らを見送る。

 卒業すればエヴァンゲリオンに会うことはないが、卒業してもエヴァンゲリオンがあったということは消えない。「さらば」なのであって、消えよ、全てのエヴァンゲリオンではないのだ。

手の差異 表現の変化2

結局のところ他者が存在するという恐怖とニヒリズム

 『新世紀』はリビルドされざるを得なかった。それは、全てへの憂鬱と、同時にそれを超える為に導かれた他者という存在への恐怖が、視聴者に残ってしまったからだ。まなざし、首を絞め、それによって他者が在るということを認識する『EOE』のラストにも、問題があったのだろう。主体の手は、否定によって、他者と自己を示す。主体は、進む様を見せない。否定によって、存在者が存在することを知るに留まる。このことこそが、『EOE』の視聴者に、恐怖とニヒリズムを残してしまったのではないだろうか。その手による行為は、即ち他者との触れ方は暴力的なものしかないという絶望を。

手の変化

 『新世紀』と新劇場版では、手の描かれ方が違い、それは同時に『新世紀』、特に『EOE』で示した他者との関係論からの変化を示しているのだというのが、本項の主張である。

 『EOE』ではそのメッセージ含みつつも示しきれなかった、他者との関係論。オナニーではダメだという主張を、新劇場版では、手の扱い方つまり他者への触れ方によって示す。その手は他者の首を絞めることで、他者を認識し自己を知る手ではなく、他者から手を差し伸ばされ、他者に手を取り、また他者に手を取られ、そして他者に手を取っていくような手である。

 『新世紀』のバルディエル戦、新劇場版の第九の使徒戦までは同じだが、ゼルエル戦・第十の使徒戦以降、描写が分かれる(ストーリー展開も全く分かれるのだが)。ゼルエルを倒す初号機の手は、それを殺し、食すための手であったが、第十の使徒を倒す初号機の手は、使徒を殺すのではなく、そのコアにある綾波レイ(ポカ波)を救おうとする手である。

 以降、『新世紀』にてシンジの手は、他者を殺す手にしかならない(24話でカヲル殺害、『EOE』でのアスカへの絞首)。しかし、新劇場版においては、その手で他者を殺すことはなく、寧ろ他者からの思い(S-DATという縁・願いを託され、そしてその縁を繋いでいき、最後には持ち主たる父へと、暴力ではなく、手でそれを渡す)を手で受け取り、他者との協調(カヲルとの連弾。正しく協“調“である)をする手である。そして、その手で人(アスカ・レイ・カヲル)を救っていく。最後には、その手は引かれるものであり、同時に引くものであり、共に握り合う手であると示される(エヴァのない世界でのマリとシンジ)。

 『新世紀』と新劇場版の違いを、手は非常に分かりやすく示している。新劇場版での手の描写の変化は、手によって絶望と恐怖を描写した、『新世紀』とは大きく異なる。本項冒頭でも述べたが、『EOE』は他者の恐怖を示してしまったが故に、その手段となっていた手をリビルドすることで、『EOE』での関係論とは別の関係論を示そうとしたのだと理解できる。そのことによって、恐怖に満ちた世界というイメージではなく、必ずしも恐怖のみではない世界を示し、それは『EOE』がなせなかった、卒業式へ繋がることである(絶望的な世界を示しつつ、「オタクは現実に帰れ!」と言い放って、果たしてオタクが現実に帰るだろうか)。

性から生へ 表現の変化3

 かつてキャラクターやアニメ世界の、リアルさ、それらしさを、庵野秀明は、性を露骨に表現することで示していた。『EOE』は最たるもので、冒頭から14歳の自慰が移り、ゲンドウの手は綾波の子宮を握ろうとし、葛城ミサトは「大人のキス」をして、その「続き」を言うことで碇シンジを鼓舞し、ロンギヌスの槍はリリスと同調した量産型を男根のように貫き、リリスに還元される魂の入り口は女性器であるし、初号機も棒状のものとして飲み込まれる。

 ここで考えたいのが、それに如何なる意味があるのかということだ。はっきりと言ってしまえば、ちん◯んとお◯んこが映って、抜差ししていれば、そこに何かがあるように、特別なことを語っているように感じられるのかということだ。性が悪いのではない。しかし、当時の庵野は中学2年生並みの表現をしている。人間ってこんなものでしょ、こういう願望あるでしょ?と。つまりどういうことかと言えば、メタファーの性であって、それ以上の人間を示せないのだ。繰り返すが、性が悪いのではないが、そればかりを以て人間を描いていても、軽薄で、記号的なものにしかならない。性があれば、キャラクターが記号ではないと感じられたのは、90年代特有の感覚だろう。

 それを踏まえて、『シン・』での描写について語れば、あるいは新劇場版について語れば、「性」の描写は極端に減った。むしろ「生」についての描写が増えた。人間は性欲を持ち、セックスをし、時にオナニーをし、それ発露するが、それだけが人間ではない。肝心なのは、「だけが」ということだ。よく生の肯定において、性など矮小で、生の大きさに比べれば取るに足らないものだと棄却されがちだが、それは違う。性を含めて、生なのだ。概念的に、性が生を超えることはないだろうが、それ故に性が価値なきものという訳ではない。「性」は「生」の一部で、特別なものではなくて、当然になされるものなのだ。「性」だけを前面に出した描写はキャラクターをかえって記号化させる。

 話を新劇場版での生描写に戻せば、それは人間像の拡張になるだろう。人の悩みを全て性に繋げるのではなく、あくまで生活の一部として自然に性はいる。『シン・』の第3村において、ヒトの子の誕生とネコの子の誕生が描かれるが、それは単に生き物が生きていくということの描写である。そして、それ以上に彼らには生活があり、それを生きている。平べったく記号的であった、キャラクターや世界に、生を持ち込むことで、それは活発なものとなる。鈴原夫妻はどの様に一日を過ごし、あの猫達はどの様に一日を過ごし、そして日々を生きているのだろうか。エヴァなどなくとも、彼らは世界を生きている。そして、第3村は生にあふれている。また、先ほど『EOE』でのミサトを例に出したが、同じくエヴァへとシンジを送るシーンでは、彼女はキスではなく、ハグをして送り出す。これは大きな違いだ。最後に、女をにおわせるのではなく、シンジに欠けたもの、母性の充足をすることで、彼を送り出す。

 では、生の描写の増加は、新世紀からの如何なる変化を意味するのだろうか。それは、中学2年生的な人間のイメージから、より現実的な人間のイメージへの変化ではないだろうか。かつてセカイ系の走りと呼ばれ、僕とその周り、それとセカイがあって、中間項がないという圧倒的な嘘を見せびらかしたエヴァンゲリオンは、自らそれ否定した。

 はっきりと言えば、庵野の生描写は、まだ足りない。第3村であれば、結界の外は「浄化」され従来の生命のない状態であって、そこにおいて人は生きることができない。にも関わらず、第3村は第3村だけで、水や空気などの生命に必要不可欠なものを持っている。それらは、地球の循環によって、我々の手元に存在するのであって、システムなきアトムにそれらは生まれない。単純におかしいのだ。海から蒸発し雨雲になり、陸で雨として降り、大地を巡り、海へと流れる水。しかし、新劇場版において、海は魚の住めないところだ。そんな場所から来る水が人にとって飲めるものなのだろうか。序・破の描写から、人はそれでも生きていけるとしても、アトムとなった第3村は、赤く「浄化」された大地からの水を得て使うのだろうか。それとも、結界の内に入れば全てが、人の使えるものになるのだろうか。それにしても、地磁気も重力さえも乱れた地球で、聖域でさえあれば人は暮らせるだろうか。

 考えれば、やたらと綺麗な田植え、「懐かしい故郷」の光景など、どうも嘘くさい描写はまだある。特撮が好きで、機械やその構造に興味があった庵野には、その様なものへの理解がないのかもしれない。だが、その様な、生を描けない、知らないであろう庵野秀明が、今回、生を描こうとしたこと意義があるのではないだろうか。つまり、全部「性」で描いてしまった、過去への庵野なりの克服の試みではないのだろうか。『シン・』においては、「大人になる」とは弱さを認めることだとされる。この限りにおいて、生を描写しようとしたことに、新たな道を自ら示そうとする態度を見ることが出来るのではないだろうか。

注:この第三村という空間は実は異常で、安易に語れる空間ではないとも思う。それは、アトム的に外界から孤立し、しかし成立している。それは不思議だ。だが、この不思議というところがミソであるかもしれないとも思う。つまり、第三村は決して、リアリティーではなく、意図的にリアリティーを装って作られ、またリアリティーでないと批判されることも見越して作られた、イマジナリーではないかとも思うのだ。それほどに、第三村という空間は特殊である。つまり、庵野にとっての理想郷であり、しかしそれは理想であることを理解して描いたのではないかとも思う。その限りで、第3村には判断を保留せざるを得ない部分がある。

3.終・批判とメッセージ

リアリティーとイマジナリー

 さて、本稿では、『EOE』から『シン・』まで、リアルへと帰れと主張がされれているとしてきた。しかし、本当にそれだけなのだろうか。少し整理しきれていない議論だが、どこまでがリアルで、どこまでイマジナリーなのだろうか。我々は、それを如何にして認識可能なのだろうか。このように考えると、「リアルに帰れ」というメッセージは、どこまで考えられたものなのか疑問が生じる。リアルとイマジナリーの区別のできない状態において、リアルはどこにあって、どのように帰ればよいのだろうか。

 実は、庵野自身もそのことには自覚的だろう。TV版26話における、ニーチェ的な認識の相対化や記号論的な名と意味の別離。『EOE』における、夢と現実の連続性。そして否定されたのは、現実の埋め合わせとしての、誰か一人だけの夢である。そして、『シン・』。何が本当で、何が幸せか分からない。しかし我々は、常に既に意識をもって、現実に存在してしまっている。ならば帰るべきリアルとは、イマジナリーに囚われ続け、そしてリアルがスポイルされるような倒錯的なリアルではなく、認識した他者と、それが不確かであっても、共に生きる(必ずしも仲良く生きるということではない)リアルではないだろうか。だからこそ、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」であったのではないだろうか。

 だが、やはりリアルは称揚されて、イマジナリーは棄却されるべきものであるということなのか、疑問は残る。作品において、明確な答えは示されない。エヴァンゲリオンの四半世紀で、社会は変わり、かつての視聴者も年をとった。戻らなければならないことは分かっている。しかし、それでも庵野秀明は、時間をかけ、エヴァンゲリオンを完結させることを選んだ。それは、まずは彼自身の整理であったのだろう。しかし、それをフィルムにして人に見せること、そしてその作品にはファンというものがいる、あるいはいたこと。更に、『EOE』と同じことをしてもよかったのにしなかったこと。これを踏まえれば、イマジナリーを庵野秀明は信じているのではないかとも思う。かつて『EOE』の実写で、オタクを映し、「気持ちいい?」など書き、イマジナリーを貪るオタクを否定した庵野が、そのオタクに対して、このような態度を取るのは、必ずしもイマジナリーの否定ではないとも思う。『+1.0』で描かれたように、エヴァンゲリオンという列車そしてそれを取り巻く環境という駅から、シンジとマリは出るのだが、そのシーンを全て実写にしてもよかったはずだ。そして、最後の実写パートにしても、完全実写にしてもよかったはずだ。それは、イマジナリーを必ずしも棄却するのではない、ということを示しているように思われる。

 リアルはまさしく当然だ。そしてそれをスポイルするような円環は否定される。だが、イマジナリーにもまた、リアルを支えうる価値がある。そのように、リアルとイマジナリーが混ざったリアルが今回の帰るべき場所であったと考える(当然そこには、相補・共同ということが含まれる)。

『シン・』がオナニーであるという批判

 『新世紀』は心の悩みの普遍性を持っていたが、シン・においては、ただ庵野秀明の復活が描かれる、ただ1人のみの心であり、それは『EOE』にて否定した、自慰的な存在の態度であると。たしかに、ある程度読めば、各キャラクターは、現実の人物そのままにしか見れない。それは、認められる。

 しかし、本当に『シン・』は、自慰的な作品なのだろうか。実のところ、賞揚される『EOE』にて心の普遍性はさして示されない。TV版25話・26話が、アスカ・レイ・ミサトにも深く斬りこんだのに対して、『EOE』にてそれらは、さして示されない。あくまで人の心が溶け合っていることを示すに過ぎず、最後にフォーカスされ、事態を決定するのは碇シンジである。ただし、自慰の否定は決定的になされる。「気持ち悪い」という言葉とともに。そして、『シン・』においては、独善では物事は動かない。全ては相補なのだ。その限りで、オナニーとは思えない。

 しかし、庵野秀明という人物のリハビリ日記だという、メタ的な批判をする者もいるだろう。確かに、『シン・』を庵野秀明抜きで語ることは困難だ。シンジは庵野で、ゲンドウも庵野で、マリは当然モヨコ夫人で。それは、そうだと思える。だが、別にそれだけに囚われる必要もないと考える。何もマリは、特定の属性を持った存在でなくともよいのだ。女でなくとも、恋人でなくとも。それが、主体にとって外部、即ち他者であればよいのだ、つまり、絶望と憂鬱の円環に居続けるのではなく、他者に目を向け、相補的に生きてみてはどうだろうかという、メッセージとも読める。理解のある人が出てきてラッキーという話ではない。

 そして、オナニーをし続け、一人だけ抜けた庵野は、無責任な野郎だという批判も虚しい。庵野は確かに、かつてオタクを呪ったかもしれない。しかし、その呪いを受け止めてしまったのは、個々人だ。庵野秀明は、オタク諸氏の親でも友達でも恋人でもない。ただの、アニメ監督だ。彼に、オタクを養う義務はない。オタクのコンプレックスを、ケアするのは彼の仕事ではない。そんなことを言う暇があるのならば、涙の一つでも流せばいい。どんなに泣いても庵野は、実存的な個々人を救えないが。

庵野の共同体論

 はっきりといえば、第3村は欺瞞だ。里山資本主義か、原始共産制か。そんなものは、リアルではない。そのくせ、それを称揚する。共同には、政治が絡む。作中内はともかく、正しく現実において、共同しろということは如何にして可能か。規模の大小はともかく、どうしても「共同」のできない人間は現実においてどうすればよいのか。そこで、政治が登場する。政治は、特定の個人を、政治的単位へと変換し、コミュニケーション能力の長短によらず、人と共同することを可能にする。まるで政治という神が仕組んだ、予定調和のように、国民という顔の見えない者同士、窓を持たないモナドは共同する。だが、第3村に政治は登場しない。誰が決めるのか、描写されないのだ。政治のないコミュニティなどありえない。それは、全員が個人という丸として集合し、全体という丸を作り上げるような、ルソー的な夢でしかない。

 言い換えよう。『EOE』は帰るべき現実を過酷なものとして示し、絶望を与え、『シン・』はむしろ希望に満ち満ち過ぎた、嘘くさい現実像を提示しているのではないのか。

 結局それは、祈りのようなものかもしれない。「分かり合えるかもしれない」という『EOE』の祈りと、どうにか人と補い合えるかもしれないという『シン・』の祈り。たとえ難しくても、現実・他者は、我々に先行する。その限りで、我々は共同するということに、どうにか適応しなければならない。それは、辛く苦しくとも、他者を全て滅ぼすことはできない。だから、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、祈りのように、人と人が、そしてリアルとイマジナリーが相補することを描こうとしたのかもしれない。

さらば、全てのエヴァンゲリオン-翻って卒業式-

 長々と同じようなことを書いてきたが、これで終わりだ。新劇場版は、リビルドというところに価値があって、『シン・』も『EOE』がなければ意味を持たなかっただろう。先に『EOE』と『シン・』は、対極とも書いたが、やはり『EOE』があったからこそ、『シン・』の結末は意味を持ち得るのだと考える。そのことは、既に書いたつもりだ。25年間の円環があったからこそ、『シン・』は意味を持てた。

 まだ書きたいことはある。使っていない視点が山のようにある。だが、それをしないことが、円環から抜けるということで、作品のメッセージだ。最後はこの言葉で締めたい。

梯子をのぼりきった者は、梯子を投げ棄てねばならない。
L.ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』6.54