見出し画像

季節感の欠如と世界への不誠実さ

いつからだろう、季節がどこか遠いものとだと感じるようになったのは。

季節ごとに何かをしても、どこかそれを自分のことだと思えない。考えれば確かにそれらは季節感あふれるものなのだが、実感が沸かない。春の香りも、夏の深遠さも、秋の寂しさも、冬の静けさも、多分そうなのだろうと理解するにとどまった。

思い返せば、最後にそれらを感じ、自身のものと受け止めたのは、高校生の頃だった。しかし、その頃であっても、いつまでそれを感じられたのか、もう思い出せない。今ある観念は、現在において更新されるものではなく、ただ過去のものとしてのみある。それは空虚なものだ。

世界は、例え人間なきそれであっても、豊饒さのないものだ。

豊饒さを感じられない世界にあって、それは自分のものだと引き受けられず非現実的なものだ。時折、ほんの一瞬間のみ、世界が、現実が来襲する。これは全く比喩ではなく、リアルな感覚なのだ。

社会構築主義的、あるいは相関主義的世界観のもとでは、あらゆる存在は物自体としての他者性を失い、単なる記号か現象に過ぎないものとなってしまう。それ故に、現実は、理解されるものではなく直観あるいは直感されるものとしてのみ、それも人為的なものではなく、ただ現実の側から来襲するものとして認識される。

しかし、これは逆説的かもしれない。現実を感じられないから、現実は相関的なものであると述べているのかもしれない。このような思いもある。世界の豊饒さ(世界の世界らしさと言ってもよい)を感じられた頃、既に相関主義を内包していた。ニーチェ主義であったと言ってよいほどであった。確かに、相関主義的世界観の影響もあったのだと思うが、それ以上の何かがある。

そのことが何であるか、明確に言明できない。しかし、その当時何かを探し始めたのだと思う。それが何なのか、それは掴みえぬ空虚な対象。ラカンが述べる「対象a」である。わからなければ愛、幸福、充足など好きな言葉を当てはめればよい。満たされない欲望を、現実に満たそうとしたのだから、コンフリクトが起きる。どこに行っても、どんな時でも、それは見つからない。そのことに疲れてしまう。そうなると、もはや世界に対して誠実な態度を維持できなくなる。

冷静に考えれば、現実は掴みえないものであるが、希望なきものでもない。しかし世界への誠実さを失えば、世界は全く現実感のないものとなる。

+++++

この文章は電子のゴミではない。語の使用は曖昧であるし、文意も明確ではないが(もっと言えば恋愛についての話でもない)。そしてメンタルが弱っている訳でもない、むしろ至って健康だ。

つまらないことをするが、この文章は陽水『夢の中へ』について書いているのだ。より詳しく書けば、山崎まさよし『One more time, one more chance』から陽水への接続、「いつでも探しているよ」から「探し物は何ですか」へ。それを感覚的に書けばこうなる。

何より、そのことが、自分一人に限ったことではないと思ったから、文にした。そうでなければニヒリズムという言葉は生まれない。現代人の平均的なメンタリティとして、上記の接続は非凡なものではないと思う。

大変いやなことを書いている自覚はあるが、これを読んでいるあなたも感覚、あるいは理解できてしまうことを書いたつもりだ。わからなければそれでいい。決してそのことを馬鹿にしないし、幸福であるとは思うが羨みもしない。ましてや、逆説的な自己肯定をしているわけでもない。むしろ、この文章は、懺悔に似ている。

わかる人がわかればいい。しかし、わからない人はそれでいい。過酷な社会生活を黙認するのではなく、「夢の中へ」行き過ぎてはもともこもないのだから、わからなければそれでいいのだ。

そして、全く最後のことが、私自身の課題だ。

追記:「夢の中へ」のMVに笑ってしまった。やっぱり「夢の中」でいい気がしてきた。